『絵合せ』 庄野潤三

絵合せ (講談社文芸文庫)

絵合せ (講談社文芸文庫)


「家は、誕生と結婚と死によって清められる」
少女時代に読んだモンゴメリの「赤毛のアン」シリーズの中の言葉です。
流れる歳月の中で、家族の形態はどんどん変わっていく。ふくらみ、しぼみ、変容し・・・それを「清め」とみることに、はっとし、一種の爽快感を覚えたものでした。
実際、変容のイベント(?)に臨めばきっとうろたえるだろう。あれこれ、ふりまわされたり、もてあましたりもするだろう。
そういうもの全部含めて、きっと「清め」なのだね。


表題作では、「彼」を中心に、五人の家族が、毎晩そろって『絵合せ』というゲームをするのだ。
それを読みながら、懐かしいようなさびしいような気持で、自分の家族をふりかえっていました。
最近は、居間に全員が顔をそろえることが少なくなってしまった我が家だけれど、子どもが小さかった頃は、ときどき家族みんなでテーブルを囲んで、トランプやボードゲームをした。それは、なんて明るくて楽しい思い出だろう。
でも、この物語の「彼」の一家では、一番下の息子が中学生、というのだから、小さな子どもに付き合って、という形ではない。
実は、この家族もまた、まもなく家の変容を受け入れるのだ。長女が結婚して家を出る。
その準備が着々と進む中で、変容前の、今このときの家族の形態をそれぞれがそれぞれらしく(改めて口に出すでもなく)静かに胸に沈めるかのような、家族そろっての「絵合せ」。
絵合せ」というゲームの形も、きっと「家族」にふさわしい。ばらばらな絵を合わせてひとつの完成した形をつくる。家族をつくる・・・
そして、この毎晩続く家族揃ってのゲームの時間が、彼らの「清め」の役割を担っているのかもしれない。それは、穏やかな「儀式」のようだ。


物語は大きな盛り上がりがあるわけではない。
大きなイベントも、それに伴う大きな感情の変化も、におわせるだけ。決して物語の表舞台にはのぼりません。
ただ、静かに日々の、どうでもよいこと(ほんとにどうでもよいあれこれの切れ端)をつなげていく。
緩い歩調の足元を見つめながら、一歩一歩着実に歩いていく。
その足取りのゆとり、穏やかさは、現在・過去・未来を俯瞰する広く深いまなざしの末ではないだろうか。
文章をゆっくりと目で追っていると、ささやかな日常を味わいつつ(よいことも不穏なこともひっくるめて)、大きな懐に触っているような気がしてきます。


八編の私小説(?)のうち、七編めの『写真家シュナイダー氏』の中にこんなくだりがあった。

>・・・この人の写真には、実直で温かいものがある。そういうものが意外に底力を発揮しているように思えた。
この言葉、庄野潤三さんの本にも言えるんじゃないか。
実直で温かい。だけど、と思う。だけど、それだけじゃない・・・そう言い切る以上のもの・・・なんだろう。わたしは言葉がみつからなくなります。
みつからないままでいいのかもしれない。
日々、一歩一歩大切に歩んでいくうちに、わたしにも見えてくる何かが、きっとあるような気がする。