『光のうつしえ』 朽木祥

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島

光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島


主人公希未をはじめとする三人の中学一年生は、被曝二世。
八月の光」から26年後の広島の物語です。
被曝二世といいながら、過去のことは「何も知らない」というところから三人の「廣島ヒロシマ・広島」を訪ねる物語が始まったわけですが、「知らない」とはいえ、
親たちの戦争が遠い歴史の一齣のように感じてのほほんと過ごしていたわたし(わたしも希未たちとほぼ同世代)の少女時代と、彼ら三人の環境はあまりに違います。
知った誰かを探す人、重い後遺症を抱えた人、固く口を閉ざした人・・・彼らの周囲にはそういう大人たちがたくさんいたのです。
気軽に「過去の話を聞かせてください」とは言えない重みを感じつつの過去への旅は、決して過去ではなかったのだ、ということを希未たちとともにわたしもまた知る。
そして、過去を語る人々は、どの人もどのひとも、やさしかった・・・


「忘れません」「二度と繰り返しません」という言葉を何度聞いただろうか、口にしただろうか。
しかし、それが、お題目になってしまってはいないだろうか。すでに「済んだこと」というところから始まっていないだろうか。
川を灯篭が流れていく。それぞれの灯篭の描写は細やかで、形も質感も、ひとつひとつ鮮やかに浮かび上がります。灯篭は一人ひとりの、かけがえのない人たちの命なのだから。
その灯篭から、ほかならぬ人たちの生きた姿もまた見えてくる。

>それぞれのささやかな日常が、小さいと思える生活が、世界を形作っている
という言葉があった。もっともっと引用したいけれど、まずはこれだけ。「世界を形作っている」ものを忘れたら、「二度と繰り返しません」という言葉さえ、なんの意味もなくなってしまうような気がする。
作中のある手紙の一節を引用しつつ、その声に唱和し、心をこめて両手を合わせます。今、笑いさざめきながら、窓の外を通っていく子どもたちの未来のために。
>どうか、あなたたちの世代が生きる世界が平和でありますように。自由な心を縛る愚かな思想が、二度と再びこの世界に紛れ込みませんように。健やかに成長され、生を全うされますように。



ここしばらく、わたしたち家族にはとても苦しい日が続いています。
やせ我慢でもなんでも、「ふつうに」ということだけを目標に暮らしてきました。
まるで、色のない夢の中を浮遊しているような気がする「ふつう」でした。
感性が鈍ってしまったようで、好きな本を読んでも(内容を確かに理解しているはずなのに)心に響くことが少ない日々でした。
この本が出ることをとても楽しみにしていたはずなのに、本当に読めるのだろうか、と不安でした。
でも、この本を読んでいる間、涙がとまりませんでした。何度も何度もしゃくりあげ、泣くごとに慰められていくのを感じていました。
惨い死に方をした無辜の人々、その記憶から離れることができず何十年も苦しみながら生き続けてきた人々・・・
その苦しみは、わたしの苦しさなど足元にも及ばない。
つらく重い物語であるはずなのに、この慰めはいったいなんなのだろう。この気持ちはいったいどこから来たのだろう。
彼らの話に、主人公の少年少女たちとともに耳を傾けているうちに、心の波立ちが落ち着き、静まっていくのを感じていました。
大きな手で抱きしめられたような気がしました。
「物語を聞く」ということは(読む、というより、わたしには「聞く」でした)、これほど、心を落ち着かせてくれるものなのか。
たぶん、このものがたりが真実だから、と思う。
起こったことが「真実」(実際、事実であっただろう)である以上に、この物語に現れた人々の「心」が真実でした。
惨い記憶を抱えつつ、今日を生きる小さな人々の、日々の真実が、心を打つ、というよりも、心を包み込む。心の隣にすわってくれる。
わたしは、確かに、あの人たちの隣にいた。そんな読書です。
心から感謝しています。