『八月の光』 ウィリアム・フォークナー

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)


まるで大きな木のようだ。
一人ひとりの人生が、大地に張った根や太い幹を意識しながら、広がる枝の一本一本となって、遠く遠く、伸びていく。
主要人物から端役まで、多くの人々が出てきた。それぞれがそれぞれのやり方で、逞しく生き抜いている。


孤児ジョー・クリスマスの人生は、あまりに辛い。
白人の中で育てられながら(孤児院→里子)自分の出自がわからず、自分の血に黒人の血が混じっているのではないかという疑いが確信に変わり、自分を自分で追い込んでいく。自分を縛っていく。何一つ確かな理由はないのに。
アメリカの南部で生きるに、自分が黒人との混血かもしれない、という疑いほど恐ろしいものはないのだそうだ。
最後の彼は、一体何を考えていたのだろう。何を望んでいたのだろう。
救いの無い、実りとは縁の遠い一生だった彼。無残な最期だったのに、最後のそのときは、不思議に明るい光に満たされていたように感じます。


それは、ハイタワーの存在があるからだ。わたしはハイタワーがずっと気になっていました。(一番好きな登場人物だった)
子どものように世間知らずで融通がきかなくて、頑固でお人よしで、現実離れした理想に生きていたハイタワー。
道化師のような役回りのハイタワーが好きだ。
(ハイタワーの傍らにいることを好み、彼を頼るバイロンにも親近感を感じる。わたしはいつもバイロンの立ち位置から、物語をながめようとしていた)


だれもかれも、自分の人生を生きているつもりなのだろうけれど、自分がどこの誰に繋がっているか、ということは、人生を左右する重大事。アイデンティティの問題かもしれない。父祖の足跡なくして、自分の人生もありえない、というような。
忘れたくても忘れられない父祖の血の流れの続きを流れていくしかないのだ、という気がすごくする。血に囚われている、というか。
(ごたまぜのアメリカだから、特にそうなのか?)
父祖の血に(わからないだけに余計に)翻弄されて滅びていくジョー・クリスマスの悲劇が、強く印象に残るけれども、ハイタワーもまた、祖父や父の人生を引きずりながら生きていたのだった。もしかしたら、二人、似ているのかもしれない。
それだけにハイタワーの最後の独白は、祈りのようだ。ハイタワーにとっても、クリスマスにとっても。
ハイタワーとクリスマスが似ている、と感じることで(私にとってだけかもしれないけれど、そうだったらいいな、と思うだけかもしれないけれど)救われたような気がしています。


物語の中で赤ちゃんが生まれる。ハイタワーとクリスマスの祈りと救いとが、この誕生に引き継がれるような気がしました。
この子の人生、きっと困難な人生になるだろう、と予想するのだけれど、それがなんだろう。まっさらな未来が広がっているのは嬉しい。
めくるめくように、次から次へと浮かんでくる登場人物たちの顔、顔、顔・・・みんな大きな木の幹に吸収されていくようだ。その先にこの子の人生もあるのだ。
この子の母リーナが、純粋なのか無神経なのかわからない子どものような女で、ただひたすらに楽観的で逞しい。地のはてまでも自分の足で歩いていこうとしている。
それが、何か象徴的な気がする。
最後の無邪気な言葉が力強い人生への餞のようです。

「あら、まあ。人ってほんとにあちこち行けるものなのねえ。アラバマを出てから二カ月もたたないのに、もうテネシー州にいるなんてねえ」