『少女ソフィアの夏』 トーベ・ヤンソン

少女ソフィアの夏

少女ソフィアの夏


(初読みの感想はここ。久々に再読して、続きみたいな感想を少し。)
おばあちゃんと孫のソフィア。
「なんだって、好きなことをやってのける」には「お年寄りすぎたり小さすぎたり」する、と「保護者」に思われている二人。
この世界には二人だけしかいない。
パパもいる。でも、パパの存在は、まるで影のようだ。
家事全てを請け負っているのはだれだったのだろう。そもそも生活感はない。
生活するにあたっての生々しいものを全部、どこか遠くにやって、この美しい二人の世界は絶妙なバランスで存在しているのだ。
一種のファンタジーかもしれない。
ヤンソンによる挿絵の二人はいつも後ろ姿。顔のない二人は、その顔を現実ではないどこか別の方に向けている、きっと。
(ソフィアとおばあちゃんが並んで立っている絵がある。この二人の姿が、まるでスナフキンムーミンみたいなのです。おばあちゃんがスナフキンで、ソフィアがムーミン。そういえば、おばあちゃんは、スナフキンに似ているかもしれない)


おばあちゃんといえば、歳と共に丸くなっていくおばあちゃんも、もちろんいいだろう。
でも、もっとよくて、なかなか、いないのが、ソフィアのおばあちゃんみたいなおばあちゃん。
辛辣だし、人に譲るということはしないし、一見まるっきり人の気持ちに配慮なんてしていないように見える。
だけど、わかるのだ。彼女の独特の気配りが。
その独特さは、スナフキンの独特さだ。
束縛や保護に背を向け、自由を克ち取る為の方法を、自然な形で伝授していく。


生活の煩わしいことすべてから解放されながら、体は思っているほどに頼りにならない。
そして、解放と思っていたけれど、実は「保護」の旗印の下に下っただけだと、実は気が付いている。
一つの牢獄から別の牢獄に移動したような憂鬱さをひらひらさせているおばあちゃん。
家族のなか(?)で、似たような立場のソフィアには、自分の立場に対する苛立ち、怒りはあるけれど、憂鬱さはない。なぜなら、あたりまえだけれど、彼女には未来があるから。いつかは自分を繋ごうとするものすべてを断ち切ることができるのだから。
孫に寛容を要求する祖母と、孫の(未熟ながらの)やさしさは、ともにかわいくて、おかしくて、クスリと笑ってしまうのだけれど、ちょっとやるせない。
物語は美しい。とっても美しいです。この美しさのバランスは微妙で、期限つきなのですよね、きっと。
影だった人たちが、影ではなくなり、後ろ向きの二人はいつか振り向く。振り向いたとき、二人は別の方を向いているかもしれない・・・