素白先生の散歩

素白先生の散歩 (大人の本棚)

素白先生の散歩 (大人の本棚)


たくさんのエッセイの中から、「散歩」について書かれたものをまとめた一冊です。たくさんの散歩を読み、素白先生、まさに散歩の達人、と思いました。
素白先生の散歩は、たとえば、思いがけず白子の宿を見出したときのように、

>新しく出来た平坦な川越街道を自動車で走ると、白子の町は知らずに通り越してしまう。静かに徒歩で歩く人達だけが、幅の広い街道の右に僅かに残っている狭い昔の道の入口を見出すのである。
また、素白先生の散歩は、独りで歩く。
>若い時から独りで歩いていた。独りで歩くということは、不思議に連れの出来ることであり、友の出来ることでもある。寂寥の無いところに詩も無く、愛も無い。沁々と物を味うために、噛みしめて見るために、私は独りで行く。
独りで行く素白先生の横に並び、素白先生の目で物を見、物を感じながら、ゆっくり歩くように読む「散歩」は気持ちのよいものだった。
森田恒友の絵が好きだという素白先生。理由は、
>・・・恒友の作品は何ら心を悩ますものがない。而も彼の作品は、単に人間を離れた草土木石だけの世界でなく、清純きわまりなきものであると共に、些かまた有情の人の世を描いている。
素白先生の散歩についての文章もまた、そんな感じの快さだと思うのだけれど。


例えば、ある横町で思いもかけず縁日に遭遇する。素白先生は言う。

>あの、街全体が灯の海になっている夜の銀座や新宿の通りを、譬えば人工を尽くした絢爛な花壇であるとするならば、こういう静かな町に立つ縁日は、寂しい野末に咲く花の一と叢であるとも言い得る。
ふいに、闇の中に浮かび上がるオレンジ色っぽい輝きがぼーっと見えてくる。嬉しいような物悲しいような風情に思えてくる。
その縁日に行こうという目的をもって出かけたのではなくて、思いがけず遭遇した、というのがきっといいのだろう。


また、『騎西と菖蒲』 
埼玉県の菖蒲町です。
乗りあいバスに乗って、車掌に、菖蒲という地名を「あやめ町かしょうぶ町か」と尋ねたことがきっかけで、乗客一同が一斉に笑いだし、読みにくい地名について話の花が咲いた、という件には、半分困ったような顔で苦笑いしてうつむいている素白先生の顔が見えるような気がします。
苦笑いしつつ、降って湧いたようなバスの中の和やかなムードを楽しんでいる。
ばらばらな目的を持って、たまたま同じバスに乗り合わせた他人同士が一瞬で和やかな道連れになる瞬間の、空気がふいに軽くなる感じに、ふふっと笑ってしまう。
時代のせいもあるだろうか。昭和の初めごろ。まだ子爵なんかもいた時代。


好きなのは、『深夜の水』というとても短いエッセイです。 
土用あけに、蛎殻町から舟に乗る。やがて変わっていく空の色。それにともなって移り変わっていく周りの景色を文章に写し取っていく。
言葉でスケッチしていくような一編。
静かに音もなく、目の前に、みるみる一幅の絵が描きあがっていくのを、ただ見守っていた。