家と庭と犬とねこ

家と庭と犬とねこ

家と庭と犬とねこ


比較的短めのエッセイがたくさん集められた本。
印象としては、引き出しの奥とか、どこかの書物の間とかに挟み込まれて忘れられた文章の小さなかけらたちの皺をのばして、お日様にあててあげたような(もちろんそんなことはないはずですけど)エッセイ集でした。


何度も形を変えながら、繰り返し書かれていたのは、戦争が終わる直前から5年間、東北で友人たちと共同で作った農場の思い出。
そして、この思い出から『山のトムさん』が生まれたんだ、と知ります。
この時代の経験は、はるかに山を離れてしまってもなお、石井桃子さんの中の大切な場所だったんだなあ、ということが伝わってきます。
それから、『幻の朱い実』の、早逝されたお友達のこと・・・言葉少ないながら、沢山の文章のどこにも、彼女の不在と彼女に対する特別な思いが、宿っているような気がした。(今は、天国で、御一緒に『クマのプーさん』を読んでいらっしゃるだろうか)


たくさんのエッセイを読んだはずなのに(目次のお題は数えきれないくらいたくさんだ)読めば読むほど感じるのは、つくづく、この人は清々しく、生涯持つべき無形の財産を、ごく小さく少なくまとめ、その見た目小さく少ない物の奥行きのものすごい深さ・広さを大切にされて生きてきたのだ、ということです。生涯変わることなく。
建前とかではなくて、気負いとかもなくて、ただ、思うままに生きたらそうなっていた、というような、その生き方。
まねなんてできないし、真似して身につくものではない、と感じつつ・・・でも、心に留めておきたい生き方です。こういう生き方に出会えた自分を嬉しいと思うから。


『波長』(p.51)
読むべき本を推薦してほしい、という学生に、愛読書のなかから、ある本の名をあげると「あれは読みました」「それも読みました」との答え。
それに対して、石井桃子さんはこのように書かれる。

>「あなたがた、そういう本を読んでいて、あとどういう本がほしいんですか? たいくつしのぎの本ですか。ひまつぶしの本ですか?」
>…目の前にたくさんあるものは、人間はだいじにしなくなりがちだ。そこでこのごろは、本もまるで消耗品のようなありさまになってしまった。
読んでも読んでもちっともおなかにたまらない。読んだつぎの日は、忘れてしまう。本がこういうことになっては、かなしいと思う。
大切なものを少しだけ持ち、深く大切にされながら生きてこられた石井桃子さんらしい言葉と感じた。
わたしは、すごく耳が痛かった。毎週読み切れないほどの本を図書館に予約して、それでも面白い本面白い本ときょろきょろして、楽しみに待っていた本さえも丸呑みするように読んでしまう私の読書が恥ずかしくなった。
マリー・ハムズンの『小さい牛追い』で、10歳の少年が所蔵する三冊の本を宝物にしてぼろぼろになるまで繰り返し読んでいたことを懐かしいような気持ちで思い出しました。
たいくつしのぎ、といわれればそうだし、ひまつぶしといわれればそう。読まずにいられないのだから中毒なのだ、と思うけれど、それでも、大切な本はきっとそんなにたくさんいらない。
何度も読む本、と思いながら本棚に納めて、そのまま。新しいものを次々追いかけて、一度も再読しなかった本たち、ほんとにごめんなさい。


「ひとり旅」(p.232)

>・・・ひとりでいてさびしくて、どうにかなりそうだなどと感じたことは一度もない。それどころか、さびしいときには、感受性が強くなり、まわりのものに心が開けるような気さえするのだ。
私の周りを見回せば、一人上手な人が多いなあ、と感じています。
わたしは、一人でいて一度もさびしいと感じたことがないとは言えないけれど、一人の時間は、大切な時間だと感じています。
一人の時間を確保できることによって、人と一緒に元気にやっていけると思っている。
石井桃子さんの「ひとり」の豊かさを浴びて、心も体も生き生きとしてくるような気がします。