ハックルベリー・フィンの冒険(上下)

ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (岩波文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (岩波文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険 下 (岩波文庫 赤 311-6)

ハックルベリー・フィンの冒険 下 (岩波文庫 赤 311-6)


巻頭には、
「この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。そこに教訓を見出さんとする者は追放さるべし。そこに筋書を見出さんとする者は射殺さるべし。
                      著者の命によりて  兵器部長G.G」
との『警告』が記されている。
とはいえ、訳者による「はしがき」で、当時の南部の普通の人の奴隷制に対する考え方、倫理観について書かれていた事が、とても参考になりました。
奴隷を所有することの是非は置いておき、奴隷の逃亡を手助けしたり、見て見ぬふりをすることは、人さまの財産を盗むことと同じ、という考え方が普通だった。
酷い扱いを受ける奴隷に同情はしても、奴隷制度に反対する者をやくざ者だと考えていたようだ。


宿なし少年ハックルベリーと逃亡奴隷のジムが筏でミシシッピ川を下っていきます。
一緒に旅するうちにジムがかけがえのない友になっていく一方、奴隷の逃亡を助けている罪悪感に深く悩むハックの姿が印象的だった。
南部人の倫理観に基づいて書かれた物語なんだなあ、マーク・トウェインも南部人なんだなあ、と思いながら、読んでいたのですが、
途中から、はたしてそうなのかな?と思い始めました。
(奴隷の逃亡を手助けすることについて)あまりに悩むハックの姿の描写や、繰り返し書かれる罪の意識の描写は、丁寧すぎやしないかい?
もしかして、表だって奴隷制度に反対できないながらに、ハックの悩みをことさらに馬鹿丁寧に繰り返すことで、奴隷制度を、こっそり、しかし痛切に皮肉っているのではないのか?
考えすぎかなあ。
そう思うのは、第十八章の「怨恨」、第二十三章の「うちの王さまなんか、それに比べりゃ日曜学校の校長先生みてえなもんさ…」あたりの滔々とした語り、など、痛烈な皮肉っぷりを思い出すからだけど。


「教訓を見出そうとする者は追放さるべし」と最初に警告されていたっけね。
でも、ビターなものが、後味に残るのです。
こんなに魅力的な少年ハックルベリーを産み出したマーク・トウェインでさえ、奴隷制度を、百歩譲っても必要悪くらいに認めていたのか。
もし、心の底ではそれに反対していたとしても、それをおおっぴらに口に出すことはできなかったのか。
教育だろうか、習慣だろうか、常識だろうか、世論だろうか・・・集団が揃って「正しい」ということの恐ろしさを感じてしまう。


物語は、次々にやってくる困難を間一髪で切りぬける連続。
ハックって、大嘘つきのならず者だけど、なんていい奴なんだ。
「おらは悪者に育てられたので、悪者のほうが性に合っていて、その反対のほうはだめなんだから、また悪者に戻ろう」
という独白には、よしよし、と大きく頷いてしまう。
悪者は(場合によっては)すごくいい奴だ。せこくてずるくて血も涙もない正義の味方(?)はいっぱいいるのだ。


最後のほうでトム・ソーヤーが再び登場。
ハックの流儀になれてきたわたしには、トムの流儀に、いらいらしっぱなしでした。
トムが主役だったとき(トム・ソーヤーの冒険)には、わたしは彼の側にぴったり張り付いていたから、彼がだれかを一杯も二杯も食わせるのを読むのは痛快で、面白くて仕方がなかった。
だけど、今や…わたしは不義理な読者である。トムが主役でなくなった今や、彼は煩わしい存在^^
まあ、いいや。トムからバトンタッチされて、ハックが舞台にあがり、最後に再び、トムにバトンを返した感じかな。


おもしろかった!
夜の闇の中を静かに進んでいく筏、眠りこけるハックを起こさず黙って見張りを替わってやるジムの優しさ、あちこちで穴だらけの大ぼらをぶちまけるハックの度胸・・・
ハックとジムの旅、もっともっと読んでいたかったなあ。