鳥と雲と薬草袋

鳥と雲と薬草袋

鳥と雲と薬草袋


葉篇集(掌編ではなくて)といわれるこの本は、葉っぱのように軽やかで、手にのせて、そっと撫ぜたくなる愛おしさです。
西日本新聞に連載されたエッセイ(コラム?)です。
土地の名を連ねていく連載だったそうです。
「まなざしからついた地名」「文字に倚り掛からない地名」「消えた地名」などの括りのなかに、それぞれの土地の名に関わる短いエッセイが書かれていた。
その土地の数は全部で49。49枚の葉っぱが降り積もるようなエッセイ集。
タイトルの「鳥と雲」は、梨木香歩さんの机の前の窓から見える。「薬草袋」は梨木さんのバッグのなかで、梨木さんの旅に同行してきたもの。
梨木さんの窓辺から、鳥たちが、小さな袋を連れて、日本じゅうの空に飛び立っていくようなイメージです。


「消えた地名」「新しく生まれた地名」の括りを読みながら、私の長く暮らした土地のことを重ねています。
平成の大合併の折に、馴染んだ地名は消え、新しい地名に変わった。
梨木さんの文章のなかの「使っているうちに愛着が湧くものなのだろうか」という問いかけに、そうですよねえ、と曖昧に相槌を打ちながら、ほんとは愛着なんか湧かせたくない自分がいる。
以前の地名が好きだった。無くなると知って初めてそう思った。
別の形でその名が残されたのも知っている。けれども、それは、わたしには何の関係もないところにある。
好きだったものがとりあげられて、手の届かないところに置かれて、「残したよ」と言われたって、うれしいわけがない。
新しい地名になって、何年もたって・・・慣れてはきた。だけど。住所を書くときには、この新しい地名の軽さが、いまだにちょっと恥ずかしい。


「温かな地名」という括りには、その名を目にするだけで、ほかほかしてくるような気がする地名が続きます。
でも、「温かさ」を感じるのは字づらからだけ、とは限らない。
「日向」という地名から梨木さんの思い出が語られる。
旅の途中のほんの小半時の思い出に、お腹の底から温まってくる。温かさにお腹のそこからしびれてくるような感じで。
わたしも振り返って、通りすがりの人の温かさ、名前さえ知らない、二度と会うことのない人たちのことを思い出しています。
今まで忘れていた不義理をお詫びしつつ、呼び掛けようにも名前も知らないあの顔、この顔、みんな優しい目をしていらっしゃる。
改めて、あのときは心からありがとうございました。心細く不安だった時のご親切、今も心に沁みます・・・


「岬についた地名」の「佐多岬」について書かれた文章も好きです。
岬は陸地の突端なのだ。
突端ということは先がないということなのだ。
先がない、ということに、梨木さんの考えが重なる。その思いにわたしも思いを重ねる。
「ここまで」の意味を大切に考えたいと思うのです。無理に、つんのめるようにして先になんか行かなくてもいい。
より豊かな「ここまで」にしよう、なんてことも、すぐすぐ考えなくていいのかもしれない。
「ここまで」に辿り着いてしまったことをもっとよく味わってみる時間がほしい。
もしかしたら、わたしたちは「ここまで」の岬をとっくに越えて無理に先にすすんでしまっているのか? 「ここまで」があったことさえも気がつかないで?


梨木さんの窓辺から飛んだ鳥や雲は、日本じゅうをめぐって、わたしのところに飛んできてくれたようだ。
鳥の銜えてきた薬草袋の中には、梨木さんの思い出のハーブといっしょに、地名についての手紙を入れて。
次から次へと、飛んできてくれた。