人間喜劇

人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)

人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)


カリフォルニア州のイサカ(架空の町)という町が舞台。
ホーマー・マコーレイは、14歳。学校に通いながら、電報配達をして家計を助けています。
家族は、未亡人の母、出征して不在の長男マーカス、大学生の長女ベス、三歳の末っ子ユリシーズ、の五人家族。
マコーレイ一家と、近所の人々、子どもたち、電報局の人々、学校の先生や級友の話などをおりまぜながら、イサカの町を電報を携えて自転車で走るホーマーの日々を語ります。
嘘をついたり差別をするような大人もいるし、ホーマーが運ぶ電報は、誰かの大切な人の戦死を告げるものだったりします。
少年の日常に忍び込む悲しみや苦しみは、彼の夢の中にまで追いかけてくることもある。
けれども、それ以上に、人間ってこんなにいいものなんだよ、アメリカの自由ってこんなにすばらしいものなんだよ、という作者のゆるぎない信念が、そして、神を称える信仰心が、ホーマーを(そして、彼の兄弟や友人たちも)明るい方向に導いているようです。


心優しく賢いおかあさん、電報局の所長スパングラーの大きな度量、そして、様々な欠点をもっていても善良な友人たち、通りすがりの二度と会うことのない人の見せる優しさ・・・などなど。
実は、かなり説教臭い話もあるのだ。けれども、それに素直に耳を傾けられるのは、ホーマーのまわりで次々に起こる、ほのぼのと可笑しい事件のおかげだろう。(ユリシーズが、はげ頭にとまった蠅を後ろからじっと眺めているくだり、とか)


心に残る場面はたくさんあるのですが、
28章「図書館で」
文字の読めない少年ライオネルと四歳のユリシーズが図書館の本の棚を眺めているのです。
借りるつもりもない、読むこともできない、ただずっと本の背表紙を眺めていたい少年たちと話したあと、司書は言うのです。
「たぶん、字が読めないっていうだけのことでしょう。私は読めます。過去六十年間、本を読んできました。だけど、そうだからといって、私自身にたいした変化があったとは思えません。さあ、行って、好きなように、本をながめなさい」
なまじっかな「読める」ことよりも、ずっと深く、この子たちは読んでいるのです。
それなのに「中に何が書いてあるか知りたいなあ」というライオネルのつぶやきのせつないこと、せつないこと。
美しい場面でした。図書館の棚ってこんなに美しいものだったんですね。


心に残る言葉もたくさんあるのですが、
27章「みんなすばらしい過ちばかり」から、
ホーマーがおかあさんに「ユリシーズは、いつか偉い人になるよ、なるね、母ちゃん」と言います。そのときのお母さんの答えが好き。
「いえ、私はそうは思わないよ――とにかく、世間的にはね――だけど、もちろん偉い人になりますとも。だって、今、偉いんだもの」


一章「ユリシーズ
この章は、高校のときの英語の教科書にそのまま載っていたのです。
この文章がわたしはあの頃、本当に好きでした。
4歳の坊やユリシーズが、走る汽車にむかって手を振るのだ。
そのぼうやに、無蓋貨車の上から手を振り返してくれた人がいたこと。彼が叫んだ「家に帰るところだよ、ぼうや」という言葉。
・・・それだけなのだけれど、温かいものが胸に満たされてくるのを感じます。
そして、今でもやっぱりここが一番好き。


家に帰る・・・なんていいのだろう。
この「家に帰る」という言葉・・・この本のなかに、いろいろと形を変えて表れました。
思えば、この物語は家に帰る物語であったかもしれません。
最後にとても大きな「家に帰る」場面に出会います。沁み入るような喜びとともに。
この「家」は、書かれているよりも、もっとずっと大きな「家」だったのかもしれない。そして「イサカ」という町が、帰るべき「家」そのものであった、と思ったのでした。