終わりの感覚

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)


60代のトニーの高校時代の思い出から物語は始まる。
ことにジョー・ハント先生の歴史の授業の場面は、トニーが彼の人生の節目節目で思いだす。わたしは、何度もひっくり返して読みなおした。
最初読んだ時は、抽象的すぎてさっぱりわからなかった言葉たちが、あとになればなるほど、「そうだったのか」と思い、「繋がる」感覚を味わうのです。

>私は軽薄にも「歴史とは勝者の嘘の塊」とジョー・ハント先生に答えたが、いまではわかる。そうではなく、「生き残った者の記憶の塊」だ。そのほとんどは勝者でもなく、敗者でもない。
歴史・・・一人の人間の人生もまた歴史です。


トニーは人生を振り返る。
起こったこと、体験したことが事実で、それにからまる感情は事実とはいえないはずなのだけれど、わたしは、一人称語りの文章を読んでいるうちにすっかり錯覚してしまった。
トニーが「感じた」人物像(高慢、謎、嫌な、真面目な、平和主義の・・・などなど)が、「事実」のように感じてしまったし、「事実」に関わる理由とか結果とか、その意味などの「推測」もまた、いつのまにか「事実」のように感じてしまった。
だけど、それらは、つまりトニーの「記憶の塊」なのだ。
忘れたはずの青春時代の苦い思い出が、初老の今になって、俄かに更新(!)されることになったのだ。
そして、トニーや彼と関わった人々の印象がどんどん変わっていくのだ。
読んでいるわたしには、もうどこまでが事実なのか、そして、トニーが感じたことや読者である私自身が感じたことやの境界もわからなくなってくるのです。


ひっくり返され、ひっくり返され、最後にとうとう、わたしは物語そのものから締め出されたのだ、主人公に裏切られたのだ、と恨みがましく思う。
そういう事実があったのだ、ということはわかっても、それは何も「わかった」ことにはならないのだ、と思う。
「あなたは何もわかっていない」という言葉のとおり。
「わかろうとするのはもうやめて」という言葉は・・・主人公に投げられたものなのか。主人公の後ろにいる読者に投げられたものなのか。
ラストは「答え」ではない。ラストはひとつの「憶測」に過ぎない。
わたしは、もう主人公についていけない。わたしは別の「憶測」を試みています。
たとえば、「なんとなく…いけない気がする」の意味も「血の償い」の意味も…
決して「答え」は得られないことを噛みしめながら…。