チボー家の人々(13)エピローグⅡ

チボー家の人々 (13) (白水Uブックス (50))

チボー家の人々 (13) (白水Uブックス (50))


冒頭のアントワーヌとフィリップ先生との会合が、あまりにも辛かった。
師弟であること、師のしぐさ表情から何もかもを読めてしまうこと、そして、本当は自分でも最初から全部わかっていたのだということ・・・


自分にはただ一人の友もいない! という言葉が胸に迫ってくる。
彼の人生は華やかだった。(医師としては、望まれる以上のことをしていたではないか。誠実だったではないか)
でも、やはり彼の生活を読みながら、虚しい思いがずっとしていた。
これだけの器量を持ちながら誰も愛することのできなかった彼のことが。
愛する者が誰もいない孤独感の前では、大きな野心なんて何ほどもないのだな、と思う。


ジャックがいないことが、寂しいけれども、この世界に一つの平和な調和を産み出しているように思う。
ジャックがいたら、ジェンニーは決して心の平和を得られなかっただろう、というのは本当だと思う。
そして、アントワーヌも、ジャックを「友と呼びたかった」のは、今、ここにジャックがいないからなのではないか。
いなくなって初めて和解、というか繋がりあう、というか、そういう存在もあるのかもしれないなあ、と思った。


そのあとの最後まで続く彼の日記は壮絶である。
死の床に苦しみ、のたうちながら、綴り続ける。
日々の事、病状の事、過去のこと、未来の事、戦争の事、政治の事、世界の事・・・
彼は、生存理由を、手探りしている。

>なんのために? それは、過去と将来とのためなのだ。父や子供たちのためなのだ。自分自身がその一環をなしている鎖のためなのだ……連続を確保するため……みずからの受けたものを、後に来る者へわたすため――それをもっと良いものにし、さらに豊かなものにして渡すためなのだ。
ところで、われらの生存理由なるもの、それははたしてこれだけにとどまっているのだろうか?


愛おしく呼びかけ続けるジャン・ポールの名前。この日記は甥に当てた遺書でもあるのだ。
孤独なアントワーヌの筆から発せらられるその名前はなんて輝かしいのだろう。
ジャン・ポールに語りかけながら、かれは同時に父やジャックを重ねているようにも見える。
フォンタナンとチボーとを結び付けるジャン・ポールは希望のように思える。
アントワーヌは、美しい世界に立つ青年の日のジャン・ポールを夢みる。
だけど、作者は本当は知っているのだ。その日、ジャン・ポールを待ち受けているのは新しい戦争であること。
なんという皮肉だろう。
誠実に生きようとした人たちの人生が一番先に奪われていく。簡単にひねりつぶされていく。
それでも生きる。その意味は何なのだろう。
「われらの生存理由なるもの、それははたしてこれだけにとどまっているのだろうか?」との問いかけが心に残る。


――
高野文子『黄色い本』がきっかけで読み始めた『チボー家の人々』ゆっくりゆっくり読みました。
やっとゴールにたどり着くことができました。
ジャックやアントワーヌと一緒に長い長い旅をしてきたような気がします。
感無量、というのとはちょっと違うかもしれない。
あまりに苦い体験をして、時には、人間がまるで風に吹かれてあっちにこっちに飛ばされる塵のようにも思えた。
主人公たちでさえ例外ではないようにも感じた。
そして、「生存理由なるもの」との問いかけには、答えることもできない。
だけど、死を目前にして、アントワーヌは書く。

>希望を失ったということは、飢渇の苦しみよりさらに苦しい。
それでいながら、おれの中にはまだ生の鼓動がある。しかも力強い……
この生の鼓動は幻なのだろうか。わからない。
わからないけれど、それでもその力強い鼓動に耳を傾けずにはいられないと思うのだ。