アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること

アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること (新潮クレスト・ブックス)

アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること (新潮クレスト・ブックス)


八つの短篇は、それぞれ違った側面からユダヤ人を浮き彫りにしているようです。
ユダヤ人・・・
昨日、この本を読み終えてから、どのように感想を書いたらいいか、考えてしまっている。
わからない・・・わかったつもりになっていたものを打ち壊されたような衝撃でした。
そして、何もわからない、というところに連れてこられたのだ。
(この衝撃から回復できずに、そのまま次々・・・気が付いたら最後の作品を読み終えていた)


ホロコースト、という言葉から私は何を連想したか。ユダヤ人、という人々の何を知っていたか。
「入れ墨」をもって生き残った老人たちの親族である、ということは。
自分の想像力の壁の遥か彼方にあるものを見せられた。それを見ながら困惑し、恥じ入っている。


例えば表題作『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』の、
信仰の在り方も生活の仕方も何もかもが行って来るほど違う二組のユダヤ人夫婦にとっての、それぞれの「ホロコースト」とは何かということは・・・
どの考え方も、わたしにはあまりに思いがけないもので、想像もできなかったのだ。
仮に、彼らと同席して言葉は通じても、同じ冗談に笑っていても、決して理解し合えることはないのだ、と悟った。


『姉妹の丘』
双子のような丘に建った2軒の家。ここから、やがて町になる。
その間に様々なことが起こる。戦争がやってきて去っていく。
訥々と語られる短い町の歴史、ふたつの家の女たちの人生・・・手ひどい喪失の悲しみも、民話のような語りの底に沈んでいくようだった。
ところが・・・
この展開は・・・もし、違う側に肩入れしていれば、この展開も次の展開も胸のすくようなわくわくした気持ちになるにちがいない鮮やかさなのだけれど・・・。
言葉がない。2010年だよ、これは。聖書の時代の話ではないのだよ。
何も知らずに「麗しいですなあ」なんて言ってしまうのだ。その光景の本当の姿を知らない、知ることはきっとできない。


『僕たちはいかにしてブルム一家の復讐を果たしたか』、『キャンプ・サンダウン』
その暗黙の約束が怖い。集団が怖い。憎しみのエネルギーが怖い。
ポグロム・・・


『読者』

>そんな、幼い男の子に聞かせるには、あまりに暗いお話を朗読した彼の母は、息子の髪をくしゃくしゃ撫でると頭にキスして答えた。「もちろんよ。あなたのためだけに書かれたのよ、坊や」子供だった作家は驚き、すっかり嬉しくなり、そして不思議な思いに満たされた。どこかで、ひとりの小説家がこの世の何かを産み出したのだが、それを、作家ただひとりに見つけてもらうために世に産み出したのだ。それは友情と同じくらい現実的な親しさだった。
好きなフレーズ。
本を読みながら、こんな風に感じること(この本は私のための本だ、私ほどこの本を理解できるものはいないのではないか^^などの不遜な思い)って、この歳になっても、いまだにある。
そういう本に出会えたときの嬉しさは譬えようもないのです。
老人と作家の関係―この小さな円環は美しく調和している。美しくて、やっぱり不気味。そして、狂気を秘めている。
この狂気はいつ表に現れるのだろう。この調和はいつ違う形に姿を変えるのだろう。
はらはらしてしまう。危ういバランス。


『若い寡婦達には果物をただで』
息子は確かにそれをわかったのだ。 わたしはわからない。共感なんてとんでもない。
とんでもないのだけれど・・・
この「わからない」という気持ちは、起こっていることを突き放したり、背を向けることではないのだ、と言いたい。
わかりたいけれど、わかったとはいい加減に言えない。言ってはいけない
彼らが背負っているものはあまりに重くて 理解を越えてしまっている。
きっと途方もなく重いのだろう、と、そこを想像するくらいしかできないのだ。


相手のことを分かるには、あまりに暗い溝がある。
まして、共感なんてとても恥ずかしくて言えないんだけど、それでも、それでも・・・
理解していることと、理解していなかったと知ることの間にある空間がきっとある。
それを大切なものと感じることなら、きっとできると思う。