農夫ジャイルズの冒険 ―トールキン小品集―

農夫ジャイルズの冒険―トールキン小品集

農夫ジャイルズの冒険―トールキン小品集


『農夫ジャイルスの冒険』『星をのんだかじや』『二グルの木の葉』『トム・ボンバディルの冒険』の四作品収録。
四作品それぞれに表紙がついていて、作品によっては、その表紙のあとに、目次やまえがきがついていたりして、四冊の別個の本を読んだような気持ちになるたいそうお得(^^)な作品集です。
挿絵もふんだん(二色刷りのもある!)ほんとに美しい。


『農夫ジャイルズの冒険』
言葉遊びや風刺がいっぱい。(高度過ぎて指摘されなければまったくわからないのだけれど)
一介の農夫が幸運に助けられて快進撃するのは痛快であった。
竜は悪い奴なのか? 悪い奴かもしれない。ただ、もっと悪い奴を相手にしてしまったのかもしれないねえ。竜、あわれ。


『星をのんだかじや』が一番好きだ。
読みながら、エンデの『はてしない物語』を思い出しました。
あの物語では主人公はファンタージェンに行ったきり容易に戻れなくなっていたのですよね。
でも、こちらのかじやは、最初から自由自在にあっちとこっちを行き来するし、自分を失うこともない。
あくまでもこちらの世界に属しながら、どちらの世界にも良い風を送る人みたい。
私は彼が開けてくれた扉から、そっと眺める。明るいものも暗いものも。それから美しいものも。
幸福感が満ちてくる。
ラスト・・・そっちにまわすのか。粋な巡りと思う。
思い浮かべるのは『星の王子さま』の「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」という言葉。(ノークスだって美しい砂漠かもしれない)
その井戸は、知るべき人だけがひっそりと知っている。


『ニグルの木の葉』
わからなかいところがいっぱいあった。(「旅に出る」という意味がわからなかったことが一番大きい。)
わからないなりに、後半の、しげっていく木の葉や、その絵が完璧な絵になるために(煩わしいはずの)お隣さんが必要であった、ということがいいなあ、と思っていた。
これは、後で読んだ『訳者あとがき』に助けられました。「旅」って、そういうことだったのか。
 

最後の『トム・ポンバディルの冒険』は詩集。
ホビット庄や、妖精、小さな動物たち、王女様に巨人も出てくる。
二篇目の『トム・ポンパディル 小船に乗る』がことにお気に入り。
ケネス・グレアムの『たのしい川辺』や、バーニンガムの絵本『ガンピーさんのふなあそび』なんかがちらちらと目の前を過っていく。
水の上で歌う詩が好きなのかもしれない。ほんのちょっと浮かれた楽しさと、水に守られた完全な孤独に憧れる。
訳者あとがきで、トム・ポンパディルについて「・・・一種のトリックスターであり、神と人間、自然と文化、秩序と混沌のいずれにも自由に出入りして、双方を仲介する『いたずら者』と考えていいのではないだろうか」と書かれていた。
なるほどなるほど。これ、『星をのんだかじや』のかじやによく似ている。
こっちの世界にいながらファンタジーを楽しむとき、道案内としてこういう存在って必要なのかもしれない。
いったりきたりできる彼らの導きが。
でも、おしまいの詩『最後の船』でわたしは少女フィリエルとともに、こちらの岸に取り残されるのだ。
取り残される…というよりも、最後の船で、きっとあちらの世界から、いるべき世界に送ってもらったのかもしれない。
または、楽しい夢から、目覚めさせられたのかもしれない。
ちょっと寂しいけど。