懐中時計

懐中時計 (講談社文芸文庫)

懐中時計 (講談社文芸文庫)


ひょうひょうととぼけたイメージが味わい深く感じるのは、その下に横たわる教養(決して嫌みになることはない)のせいでしょうか。
私小説なんだなあ。でも全部じゃない。
きっと事実だったろうと思うもののなかに、ほんとにあったはずはないよね(あったら怖すぎるでしょう)と思うものが混じり合っている。
何気ない風景と狂気に似たものとが入り混じって、日常と狂気は紙一重な感じだ。


過ぎゆく日々のスケッチ、亡くなった人々の横顔。まるで列車の窓から見る風景のように過ぎてゆく。
風景は変わっていくのに、作家は残される。しみじみと寂しくもなります。
しかし、からりとしたユーモアに彩られながら語られるそれらの物語は、必要以上に感傷的ではないのです。それがよい感じ。
(それにしてもお酒好きだなあ。)


三人称・大寺さんを主人公にした作品と 一人称「僕」を主人公(語り手)にした作品とあった。
同じ境遇を語るにしても、大寺さんによって語られると、時間が少しゆっくりになって、少しだけ、ほのぼのとした風景になる。
語り手が二人称だと、こちらは語り手と差し向かいで、作者から直接話を聞くような感じになる。
厳しい現実もあまりにリアリティがあると、語り手と膝つき合わせて向かい合うのが苦しい。(語り手ももしやそう感じているかもしれない)
ここはひとつ語り手に第三者になってもらえば、作者と読者とちょっとだけ距離を置くことができる。少しゆとりをもって受け入れられる。
道場人物たちの後ろの方から、作者にそっと会釈を送りたいような気持ちを「大寺さん」の存在が汲んでくれているような気がします。
一方、フィクションと思う物語では、「僕」という二人称によって、読者も、思う存分その事態のひざ元まで近づく。それなりの緊迫感が、快感になる。
ちょっと乱暴な仕分けをしてしまったけれど、おおよそ、そのような気持ちで読んでいた。


大寺さんの話はどれも好きだった。ことに『黒と白の猫』
『黒と白の猫』の、見えたような気がする猫の幻も、『影絵』の伯母の幻も、ともに、大切な人との大切な別れを仲介してくれているようだった。

『懐中時計』もよかった。ずっと気にかかりながら、いつまでたっても姿を現さない懐中時計がおかしい。
それをめぐる人間模様は愛おしかった。