日本人は何を捨ててきたのか -思想家・鶴見俊輔の肉声


この本、難しかったのです。一切注釈もなく(これは意図的かな?)、意味のわからないところが多くありました。
それでも、わからんちんのまま読んでいくと、ぼんやりしたものが形になって、少しずつはっきりしてくるような気がするのです。
それは、こういうことだろう。
自らを「悪人」といいながら語る鶴見さんの言葉一つ一つが、静かに澄み切った感じがする。ゆるがないのです。(「善人」のぐらぐらさがない)
たとえ、「転向した」という言葉を外から浴びせられたとしても、芯はきっと一貫して変わらなかったのだろう。(転向したのはむしろまわりであっただろう)

>いい人ほど友達として頼りにならない。いい人は世の中と一緒にぐらぐらと動いていく。でも、悪党は頼りになる。敵としても味方としてもね。悪党はある種の法則性をもっているんだ。これこれのことをやれば、これこれのことが出てくるというね。
>日本人は敗戦という入れ墨をされた。だけど、敗戦後に、それを入れ墨と感じないで洗い落とせるお化粧のように思っちゃうところに日本の知識人の持っている浅さがあるね。問題を「本物の思想は何か」というふうに移したくないんですよ。
>真理は間違いから、逆にその方向を指定できる。こういう間違いを自分がした。その記憶が自分の中にはっきりある。こういう間違いがあって、こういう間違いがある。いまも間違いがあるだろう。その間違いは、いままでの間違い方からいってどういうものだろうかと推し量る。ゆっくり考えていけば、それがある方向を指している。それが真理の方向になる。
そうか、だから頼りにならないのか、いい人は・・・。
「いい人」になりたいと思っていたわたしとしては、厳しく自問したいが、ここで、「いい人」やめたい、と言いいたくなっちゃうところが、ほんとにわたしって絶望的「いい人」なんだ、と思い知る。まずはちゃんと思い知ろう。
そして、決して消えない入れ墨の事をよくよく考える。
個人である沖縄県知事が語るとき、彼の後ろには沖縄で亡くなった人々が生き返って座っているという。その強いイメージには身震いするような感動がある。


(長い時間をかけて無私に動いてきた巨人たち、その一人ひとりの言葉に強く心動かされながら、その流れを汲んだ人々が団体になったとき、その行動力に敬意を覚えつつ、ほんのわずか、何かが違う、と感じることがある。漠然とした怖さも。その「何か」は何なのか見極めていかなくては、と思う。)


それにしても、鶴見俊輔さん(そして関川夏央さん)から、次々にあふれるように出てくる文学者たちの名前(そして、その経歴や作品に対する深い読みこみ、理解)に驚きます。
ジャンルを越えた広がり(古典・哲学、現代文学、漫画まで)、しかも哲学も漫画も同等に深く読まれる。
なかにはわたしも読んだことのある本があったのですが、私ったらなにを読んでいたわけ?とあきれてしまいました。


理解できている、とはとてもいえないのですが、今の時点での感想です。
読んで、ぱっと解る本ではないし、その必要もないのだ、と思いました。大切に読んでいきたい本。読みながら、この本の感想も少しずつ上書きしていこうと思います。