河・岸

河・岸 (エクス・リブリス)

河・岸 (エクス・リブリス)


時代は1960〜70年代、文化大革命のころ。ところは中国の油坊鎮という地方都市。
革命烈士の息子といわれ、油坊鎮の重鎮であった庫文軒は、突然身分をはく奪され、追放同然に河上の生活に入る。
以来、陸には一切足を踏み入れない。彼を一言でいれば「静」
一方、彼の妻は、突然の環境の変化、断たれた道を、夫のせいである、と恨み、離婚。怒りを原動力に手探りで自分の道を歩み始める。
彼女を一言で言えば「動」だろうか。
そして、二人の息子である東亮は、父についていくことを選ぶ。物語は東亮を語り手として進む。


いきなり河に落とされた庫文軒父子に、世間の風は冷たい。
村の要職にあった頃はこびへつらってきた近所の人たち、役人たちも、そろって、彼らを軽蔑し、攻撃する。同情の言葉はひとつもない。
この掌を返したような態度。
何も書かれていないけれど、羽振りがよかった頃からこの家族はよほど嫌われていたのだろうか。
それとも、この時代の中国では当たり前のことだったのか。
よくわからないけれど、昨日と今日とでくっきりと変わる人の運命も、世間の徹底した冷たさも、まるで戯画のようだ。ブラックな戯画のよう。


静かに運命を受け入れた父と、運命にあらがおうとする母の間にあって、
東亮は、怒りをくすぶらす。彼は運命を受け入れようとはしない。かといって、何かに立ち向かおうともしない。
その怒りはどこにも向かわない。何も生み出すことはない。
そもそも、彼が父との生活を望んだのは、陸上の人々の冷たい目から逃げ出したからだ。
彼は陸を軽蔑し、河を軽蔑し、しかし、その姿は、周囲の人々の失笑を買うばかり。
彼の行動は、空回り、ただ、自分を締め付けていくばかりなのだ。


陸の上が生の世界。河の下が死の世界。
だとしたら、どちらにもふらふらと寄生しつつ、どちらにも属さず、激しい怒りをみなぎらせる東亮は、いったいどこに向かえばよいのか。
・・・わからない。
それは、東亮だけではないんじゃないか。
彼のまわりにいる陸の世界の人間たちにも河上の人間たちにも、自分の行く末もこの国の行く末も見えてはいない。
常識も価値も昨日と今日とではがらりと変わる日常の波間に漂っているだけだ。
そもそも、彼ら全体を乗せた油坊鎮というこの村が、あてどないくすぶる怒りにふりまわされて、ゆっくりと沈んでいくような印象を受けるのだ。
油坊鎮という陸が、東亮や多くの人々を乗せたまま、巨大な魚になってしまったのではないか。