第2図書係補佐

第2図書係補佐 (幻冬舎よしもと文庫)

第2図書係補佐 (幻冬舎よしもと文庫)


>僕の役割は本の解説や批評ではありません。僕にそんな能力はありません。心血注いで書かれた作家様や、その作品に対して命を賭け心中覚悟で批評する書評家の皆さまにも失礼だと思います。
だから、僕は自分の生活の傍らに常に本という存在があることを書こうと思いました。・・・
「はじめに」の言葉。ああ、そんなふうにわたしも本の事を書けたらいいのに。
この本でとりあげられた本は数えたら47冊。どれも又吉さんの好きな本ばかりだそう。
といっても、「僕の役割は本の解説や批評ではありません」という言葉どおり、真正面から一冊一冊の本について語らない。又吉さん自身の生活や身近な人々のこと、子どもの頃の思い出など、さすが芸人さん、ときどき吹き出させたりもしながら、とりとめもなく語っているのです。
でも、「僕にそんな能力はありません」とは、謙遜しすぎじゃありませんか?
とりとめがない、と思った文章、本とは何の関係もないように思った文章、それらが実は、その一冊の本のイメージを適確に表現しているのでした。


たとえば。
たとえば、『月の砂漠をさばさばと』(北村薫 著/おーなり由子 絵)について。
又吉さんが苦手な子どもと懸命にからもうとして、なぜかからまわってしまう(?)不毛なエピソードのあれやこれやが描かれる。
読んでいるわたしは、本のことはうっかり忘れて、クスクス笑いながら、なんとなく、おかしいだけではないヘンテコな気持ちもまじっているのを感じる。(感じさせるような文章なのです)
そしたら、いきなり、
「『月の砂漠をさばさばと』を読んだ時、子供と接した時と似た読後感を得た。純粋な子供と接すると時々感じる、あの物悲しさだ」
と書かれていて、ああっ、と思った。おかしいだけではないヘンテコな気持ちの正体は、あの物悲しさだ、と。
そのあと、たった四行なんです。ストレートに『月の砂漠をさばさばと』について言及しているのは。
だけど、その四行のなかには、
私が『月の砂漠…』を漠然と好きだと思いながら、どうしても正体を見極められなかった、言葉にできなかった、その「好き」の意味が、書かれていた。すうっと納得できた。そうだ、そういうことだ、と思った。


そして特筆すべき太宰治
どの作家さんの本も各一冊ずつしかとりあげられていないのに、太宰治のだけは二冊。そのうえ巻末の対談のなかでも太宰治について特別に語る。
太宰治を好きだ、という人はこういうふうに読むのか、このように作品の中にはいっていくのか、と・・・
決して、「太宰治はそのように読むのね」とわかる読書案内なんかじゃない。そういうものを期待すべきじゃない。
ただ、知った。この場所はこの人のとても神聖な場所なんだ、ということを。
なんだかとっても羨ましくなってしまった。


本についての本なら、こういう本がいい。解説ではない、批評ではない。ただ、自分の大切なものをそっと見せてくれる。
思い切り偏っている、と思う。それがいい。だってこの一冊がほかならぬ又吉さんの本棚だから。
見せるだけではなくて、もしよかったら、貴方も手に取ってご覧、とそっと誘いかけてくれる。
だから、この本のなかで紹介されている、まだわたしの読んだことのないたくさんの本がとっても気になる。