チボー家の人々(8)1914年夏Ⅰ

チボー家の人々 (8) (白水Uブックス (45))

チボー家の人々 (8) (白水Uブックス (45))


《最近オーストリアに合併されたボスニアの首都サラエヴォにおいて、けさオーストリア=ハンガリーの皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻は、公式式典中、ボスニアの一革命青年により拳銃狙撃を受けて絶命された……》
この一報に対する、ジャックの周囲の人々の温度差が際立ちます。


もうこれまでに大勢の登場人物が出てきた。半分くらいしか覚えていない。
名前はなんとなく覚えているけど、はて、どういう関係の人だったっけ・・・というのがちらほら出始めている。
そこへもってきて、またここジュネーブでドドッと人が増えている。ふう。


前半、ジュネーブの革命家たちが各々の意見を開陳する。
それぞれ目指す方向は同じはずなのに、そこに至る道筋はばらばら。そして同じはずの方向が、ほんとに同じなのかどうか妖しんでしまう。
彼ら同志たちの間でのジャックの立場が今一つ掴めない。


オーストリアの皇太子暗殺が、なぜ世界大戦の引き金になったのか(周到に用意された戦争であったこと)が、ジャックの言葉で初めてわかった。
さらに、「平和、平和」と唱えながら、戦争は必要悪であると信じている政治家たちの影の取引の話など、これはもう物語ではないのだな、と寒々と感じている。


後半はパリ。アントワーヌを始め、旧知の人々と出会う。
革命家たちの群れと、パリの人々との温度差…気になる。
ジャックとアントワーヌの議論に、息詰まるよう。
ジャックの側に立ち、アントワーヌの平和ボケにいらいらする(だって現実に、今後どうなっていくかを知っているから)
一方で、ジャックがあまりに純粋すぎて余裕のないことが気になる。
ジャックの理想は高い。そしてあまりに無私で一途。潔癖すぎるのも青臭く痛々しい。人々への崇高な愛を語るが、実際目の前のひとりの人を愛することにも臆病だ。いや、愛しすぎる自分の気持ちを持て余しているのか。
アントワーヌは別の意味で愛することが苦手なのだろう。彼は頭がよすぎるのかもしれない。自分の欠点に向き合うことができない。自分が出来ないことを認めず、自分で自分を目の前の代替物でかっこよくごまかしているようだ。
(彼らの複雑な性格! それをナイーブに丁寧に描写する筆力の豊かさに、圧倒されてしまう)


恋愛に関しては、なんて無様でだらしない男たちばかりが出てくるのか。意気地のない女ばかり出てくるのか。
まともなごくごく普通の家庭人はなぜ出てこないのか。ぶつぶつ。


この本の最後の方。アントワーヌとアンヌが郊外に晩餐に出かける時の描写が好き。
夏のまだ暑さが残る夕方。けだるい空気のなか、パリの市街を車で抜けていくと、草のにおいの風が窓から入ってくる。
息詰まるジェロームの手術と夫人の付き添いのシーンのあとなのだ。緊張が緩やかに解けていく。風の匂いをわたしも感じている。気持ちがいい――