即興詩人(上下)


小学生の頃、子ども向けに簡単に書きなおした名作全集(?)の一冊『即興詩人』を図書館で借りてきた。
そのとき、家に来ていた父の客が(「即興詩人」という言葉がきこえたのだろう)まるで見直したようにわたしの顔を見た。
「へえ、君はもうオウガイを読んでいるんだね」
オウガイって何のことだかわからなかったけれど、その声の響きが嬉しくて、わたしはその人に自分の持っている本を見せたのです。
そうしたら、その人は途端にがっかりした顔になって、「ふうん、今は子ども向けのこういうのも出ているんだね」
わたしの読んでいるこの本は本物ではないのかしら。オウガイを読まないと「即興詩人を読んだ」と言えないのかしら。
じゃあ読みましょう・・・って、読めません^^
以来、いつかオウガイの『即興詩人』を読むことがわたしの夢になりました。
そうして年は巡ります・・・


何度も挑戦しては挫折して、今度こそ即興詩人を読めそうと思ったのは、安野光雅さんの『口語訳 即興詩人』が出た事を知ったとき。
この本を参考書にしながらゆっくり森鴎外の『即興詩人』を読もうと。・・・思ってから、さらに二年。
今年こそ『即興詩人』を読み切ることを、年頭に誓いました。
・・・×0年温めてきた夢、アンデルセン作・森鴎外訳の『即興詩人』をとうとう読みました。二カ月かけて読み終えました。(やった!^^)
安野光雅さんありがとう。あなたがいなければ、ものの数ページで挫折していたであろう。ほんとうにずいぶん助けてもらった^^)


子どものころにダイジェストとはいえ、そのあらすじは読んで知っているはずなのですが、やっぱり難しかった。
読みなれない文語体、ほとんど意味がわからなかった。
意味なんて解らなくてもどんどん読む。とにかく読む。
そう決めてひたすら読んでいるうちに、わからないまま、この文章のリズムが心地よくなってくる。この文章を味わっているような気がしてくる。好きだな、と思い始める。
そして、不思議・・・下巻に入るころには、なんとなく(少しはわかって)読んでいるらしいよ、わたし。
とはいえ、しょっちゅう読み間違えて、安野さんの本を引っ張り出して「あ、そういう意味だったのか!」と思い知るのでした。
また、集中力が途切れるとたちまちわけがわからなくなるあたり、洋書読んでるみたいでした。
一日数ページ・・・少しずつ少しずつ。


雅文体とはよくぞ名づけたものです。
原作はアンデルセンで、舞台は19世紀初頭のイタリアなのです。ローマ、ナポリヴェネツィア。登場する人の名はアントーニオ、ベルナルドォ、アヌンチアタ・・・
それが、由緒正しい(日本の風物・日本人の心情にこそ相応しいと思っていた)文語体で描かれる。
文語で旅する19世紀初頭のイタリア、文語で旅するイタリア青年アントーニオの胸の内です。
これは思っていた以上に、不思議な感覚でした。出会ったことのない文化に出会ったような。
文語と19世紀ヨーロッパの出会いは、「雅」という一文字がなんて似合うんだろう。
今まで味わったことのない旅情めいたものが湧き上がってきて・・・酔います。
物語、というよりも、絢爛豪華な夢を見たような味わいです。
長い詩を読んでいるようでもある。
ことに、風景を描写する雄大さ・美しさなど、森鴎外の文章で読めたことに感謝したいと思います。


この物語は、解説の文章を借りれば、
「若い芸術家の青年、かれの悲恋と世に出るまでの物語が、ローマ、ナポリヴェネツィアを舞台にして展開する間に、ここにはイタリア本土のおもな旧跡、観光地のほとんど、それを取り巻く自然のたたずまいがさまざまに点綴されて描かれる。また、そこにからむギリシア、ローマの神話、伝説からイタリアの歴史、宗教、芸術、年中行事、風俗、風物にこまごまと筆が向けられるのである。」
わたしは、アントーニオの遍歴についていきながら、19世紀のイタリア巡りの旅を楽しみました。
ときどき、現実離れした偶然や奇跡の度重なりなどに、「ありえない!」とつっこみつつ、それを楽しんでもいます
アンデルセンは小説を書いたのではなくて、この物語を童話として書いたのではないか、と思うのです。大人の童話です。
ありえないはずのどの巡りあいにも、寓意めいたものを感じる。数奇な運命も、大きな手のうちにあるのだ、と。
最後の「王子様とお姫様」の「めでたしめでたし」も童話のお約束として、嬉しく受け入れられます。
そして、読み終えて残るイメージはただ夢のように美しい。


カーニヴァルに、美しい歌姫の馬車を引く青年たちの熱気に呑まれ、
運命の分かれ目に出会う老婆の占いの言葉を心にとめ、
瀕死でたどりついた洞窟で美しい少女の幻を見た。
そしていつでも敬虔な祈りといにしえの詩人たちへの憧れとがある。
美しい歌姫の歌声が遥か彼方から聞こえてくる。


ラストシーンは、小舟に乗った主人公が琅カン洞(グロッタ・アッズッラ)を抜けていく場面。

遊人の舟は相銜(ふく)みて洞窟より出で、我等は前に渺茫(べうばう)たる大海を望み、後(しりへ)に琅カン洞の石門の漸く細りゆくを見たり。
海の水が満ちて、やがて洞窟の入り口は閉ざされるのです。水の幕によって物語は閉じます。
空は晴れて・・・まるで絵巻物のよう。