イクバルと仲間たち

イクバルと仲間たち―児童労働にたちむかった人々 (ノンフィクション・Books)

イクバルと仲間たち―児童労働にたちむかった人々 (ノンフィクション・Books)


あのね、こういうゲーム、ありますよね?
沢山の棒きれを組み合わせて高く積み上げて作った塔(?)から、ゲームの参加者が順番に一本ずつ棒きれを抜き取っていくのです。そのとき、その塔を決して崩さないようにすること。
順番に棒きれを抜いていくと、もはや、どの棒きれも抜くわけにはいかなくなります。
塔を構成するに足るぎりぎりの棒きれだけが残っていて、このあと、どの棒きれ一本ひっこ抜いても、絶対塔は崩れるのです。
この本を読みながら、崩れる寸前の棒きれの山を思い出していたのです。
棒きれは、労働者と、彼らをがんじがらめにする貧しさ。雇い主と権力者との癒着など。塔はそれによって成り立っている一国。
理不尽だ、と端から思いっきり非難してみたところで、微妙なバランスを崩せば、塔はくずれる。
そうしたら、塔を構成していた棒きれたちは、ばらばらになってしまう。


債務労働…字づらを眺めれば、何のことを言っているか分かるような気がしますが、
逆に、分かるような気がする、というだけで、何も分かっていなかったのだ、ということを思い知らされました。
イクバルは、四歳からずっと奴隷のように(このままいったら一生続くはずだった)一日14時間、過酷な労働を強いられてきたのでした。
彼は、親の借金のかたに、文字通り、じゅうたん工場に売られたのでした。
過去の話ではなくて、現在。インドやパキスタンなど、南アジアの国々には、イクバルのような子どもがたくさんいるのだそうです。
BLLF(債務労働解放戦線)の努力によってイクバルが解放されたのは、10歳のころだった。(正しい年齢ははっきりしないといいます)
その後、仲間の子どもたちを救うために、大人も叶わぬほどの精力的な活動を続けるイクバルでしたが・・・


過酷な労働を強いられる子どもたちを自由にすることは、単純に解放につながらない。もしかしたら、そのために彼らをさらに追い詰めることになるのかもしれません。
その理由もまた、わかりやすい言葉で、丁寧に語られます。
読んでいると、手も足も出ないのではないか、どうしようもないのではないか、と空しい気持ちにさえなるのです。
そういう気持ちにさせられるこれらの国々の権力者たちに対するおかしな恨みのようなものも感じたりします。
そして、あの棒きれの塔のゲームが、頭に浮かんだのでした・・・


だけど、

>豊かな先進国で心地よく暮らしている人々が、貧しい発展途上国の労働状況を非難するのは、はたして公平で正しいことでしょうか? 過ちを犯したことがある人に、他人の過ちを一方的に責める資格があるでしょうか?
そうでした!
ふいに自分が恥ずかしくなる・・・
児童労働は、嘗てはアメリカにも存在した。そして、日本だって。・・・それほど昔のことではなかったはず。
確かにわたしたちの今の快適な暮らしは、そういう過去を経て、もたらされたのです。
わたしは、たくさんのイクバルたちの上に乗っかって暮らしているのです。
それなのに、どうして他所の国を非難することなどできるだろうか。
・・・では、どうすることがいいのだろうか。どうしたらいいのだろうか。


棒きれの塔を崩さずに、棒きれをひっこ抜きつづけるためには、新たなしっかりした支えが必要なのだ。
なんだ、そんなことか。いや、それは、実はとても大変なことでした。
でも、きっとできるのだ。


アメリカのブロード・メドウズ中学校のティーンエイジャーたちの活動が心に残るのです。
彼らはひるんでいません。
彼らには、先進国から後進国へ、という意識があったわけではなかった。
そして、彼らがしたことは、非難ではなくて、友としての(相手を尊重する)支援であった。
児童労働者も、自分たちも、同じ子どもなのだ、というただそれだけで、動いていたのだ、ということが心に残るのです。
子どもたちの、純な気持ちが原動力になり、子どもたちを中心に、大きな渦になっていくのが眩しい。


子どもや若い活動家たちの真っ直ぐな行動力に、圧倒されます。
遥か遠い国に暮らす人間でも、その小さな小さな一端を担うことはできそう。
無関心でいたら、絶対知ることのできなかったいろいろなこと(たとえば、知らなかったために、気がつかないまま児童労働を援護する側にまわっていたことなど)、なんてたくさんあるのだろう。