『失われた声』を聴くということ (『書標』1月号)  

八月の光ジュンク堂のブックレット『書標』1月号に、朽木祥さんのエッセイが載っています。
「『失われた声』を聴くということ」というタイトルで、『八月の光』について語っています。
ブックレットはジュンク堂の店頭で手に取れるそうですが、嬉しいことにWEBでも、全文読むことができます→こちら


八月の光』は暮れに再読したばかりでした。
八月の光』には、モデルがいる、と聞いたことがありますが、それは、もっと漠然としたものだろう、と思っていました。
これほどはっきりとモデルになった方たちについて語られたことに、びっくりしました。
主人公たちの後ろに、確かに生きた人がいて、人生があったのだ、ということに、言葉もありません。
そして、ヒロシマは、決して終わってはいない、あの主人公たちは、未来のわたしたちかもしれないのだ、ということに頷き、
どうして忘れることができるだろうか、と思う一方で、
そう言いながらも、ほうっておいたら忘れてしまうかもしれない、とも感じてもいます。
そして、何度も何度も姿を変えて襲いかかってくるヒロシマに、その都度その都度驚き、呆然とするのかもしれない。
まず、「忘れない」でいることが、この移り変わりの激しい世の中で、ものすごく大変なことなのだ、と思います。
いや、そんなことを言えるのは、私自身が心底痛い思いをしていないからだ、といったらそれまでなのですが・・・
本当に痛みをわが事のように感じられるなら、忘れたくても忘れられないか、
八月の光』三話目の『水の緘黙』の青年のように、忘れたことにあれほどに苦しむのだろうに・・・
さらりと、「忘れない」「忘れたくない」という言葉を使ってしまう自分が、後ろめたく、情けなくなる。


・・・だから、この本が必要なのです。
著者自身が被曝二世であること、『八月の光』のモデルたちは著者の身内であること、
それでありながら、押しつけがましい言葉はどこにもなくて、
ただ、ただ、深く傷ついた人たちへの慈しみと共感が広がっていくような気がする美しい一冊の本。


八月の光』とともに、この小さなエッセイを読めたことをありがたいことだと思います。
主人公たちと、その後ろにいる人々の声に耳を傾け、今自分が生きているこの世の友人たちの声に一生懸命耳を傾ける。
何度も何度も、大切な人々の声を聴くようにして『八月の光』を読んでいきます。