本にだって雄と雌があります

本にだって雄と雌があります

本にだって雄と雌があります


「あんまり知られてはおらんが、書物にも雄と雌がある」という怪しげな言葉とともに、
深井輿次郎という本(?)の蒐集家(?)を中心に、一族約四代(になるだろうか)と幻書(これがまた!)にまつわる波乱に富んだ歴史が幕を開ける。
語り手は深井輿次郎の孫であるが、彼の息子(今はまだとても小さいらしい)に、語って聞かせる形になっている。


と、ここまで書いて変なところあるかしら?
もう、どこが変でどこが変ではないかわからへん。
とんでもない本なのだ。まず、本に雄と雌があるんだってよ。それが前提でどんどん話は進んでいくんです。


設定が奇想天外で、そのうえ、この語り手の語り口があまりにおかしくて、ああ、これは人前では読めない本だな、と最初の数ページで悟ります。
人前で、吹き出したり、「くくくく」という音が喉から出ないようにするのは、不可能なのです。
一見とんでもない大ぼらに見える。いや、そもそも小説なんてみんな大ぼらだ、なんて開き直ってみたところで、限度があるんだよ。


だけど、ここまでおかしな人間たち(読んでみればわかります)、ここまでありえない事態(読んでみればわかります)がもう次から次…
(とはいえ行間からにじみ出てくる著者の教養の広さ、深さに圧倒される。この方、きっとものすごい読書家でいらっしゃる!)
という状態にどっぷりつかると、不思議にピュアなものが透けて見えてくる。(おもしろがって油断していると、やられます)
この一族の人々、ものすごく愛情深くて純情なのだ。しみじみと愛らしいのだ。
へんてこ、というか、中途半端を退ける、ありえないくらいの破天荒な歴史は、読めば読むほどに沁みてくる一種の人間讃歌のように思う。


そして、本。本への愛情、信頼に、心奪われずにはいられない。
本好きを自認するなら、どうしたって持っていかれるしかない。(どこへ? そりゃもうボルネオの空の果ての…あそこに)
本って、そもそもどういうものなのだろうか。どういうものであったはずなのか。
もっともっと、本におぼれてみたくなってしまう。(まだまだだなあ、まだまだ全然おぼれ方が足りないのよねえ、わたしは)
本を読むとはそういうことだぞよ、とありがたい声が聞こえてきそうなふかぁい至福へと変わっていく。


とりあえず、なんでうちの中にどんどん本が増えていくのか、納得できたような気がします。 >「やっぱりな」


死んでなお本に振り回され煩わされる地獄があるなら、そして、極楽と地獄とどちらかを選べるとしたら、どっちを選んだものだろう・・・


最後に「ああっ、なんということ」と、めくるめく発見をさせられる。
この本って・・・わたし、いったい何を読んだのだろう。この本が、なぜ、図書館の棚にまぎれこんだのか。どこから来たのか。
かの百年しゃっくりの怪物が、ぺらんと口を大きく開けて笑ったのが、今見えたかな。