フリント船長がまだいい人だったころ

フリント船長がまだいい人だったころ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

フリント船長がまだいい人だったころ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)


『宝島』の極悪人フリント船長だって、生まれ落ちたときから悪人だったわけではないだろう。
いい人だったころがあったのかもしれない。
それなら、いい人(ごく普通の人、常識的な人、善意の人)が、フリント船長のような冷血の極悪人になることもあるのだろうか。
いったいどんなきっかけがあったのだろう。


たとえば、歯医者さんで治療を受けているとき、突然、神経に触られて、体に電流が突き抜けるように、痛みがきーんと沁みたことなど、思い浮かべている。
・・・そういう衝撃的な何かがあるのだろうか。
そんなことが起こるなんて、自分自身予想もしていなかった何か。
その瞬間。外からは何の変化も見られないその瞬間、内側で何かが弾ける。
そうして、一線を越える――
それは、いったいどういう瞬間なのだろう。一人の人にとって全てがひっくり返る瞬間って・・・



>「・・・だからさ、人に何ができて、何ができないかなんてことを考えたって無駄なんだよ。わずかな例外を除いて、そこには答えなんてないんだから」



冬の半島、閉じられた突端。
荒れたアラスカの海でカニを捕る船が出ていく。半年の長きにわたる男たちの不在。
命を賭けて、何度も半死半生の体験をして、実際に命を落とす人間もいて、そんなにまでしても、大漁を誰も保証しない。
それでも、そうやって生きていくことは、生まれ落ちたときから決まっているようなものだった。
それがこの町に住む人々の人生のすべて。それ以外何も意味がない町。
そのようにして来る日も来る日も過ごしてきた男たちは(女たちも)運命共同体になり、もしかしたら、共同体のまま、少しずつ病んでいたのかもしれない。
麻痺していたのかもしれない。
でもほんとうはなんとも言えない。
暗くて冷たい。陰鬱な空気のなかでは、何が当たり前で、何が当たり前ではないのか、わからない。
とらえどころがない、この島の人々の姿は、この島が生み出した独特のものだったのかもしれない。


主人公カル(語り手)は、14才の少年のころを振り返って語る。
その年に、この村で起こった事件のことを。


これはミステリだろうか。
登場人物たちが忘れられない存在感を持っている。
どの人物もどの人物も一筋縄ではいかない。一言で、彼(彼女)はこういう人、といえる人がいない。
「よくわからない」人たち・・・あまりにも隠れた部分が多すぎて、わからないのだ。
わからないことが、存在感を呼ぶ。不気味だと思う。その不気味さがとても人間臭い。そして、その人間臭さが恐ろしくもある。
この半島、独特の雰囲気を持つこの半島のせいだろうか、冷たい冬のせいだろうか、この町の主だった男たちの一年の半分の不在(漁のため)のせいだろうか・・・


丹念に、丹念に、描かれるこの島の暮らし、いろいろな家族の事情・・・それが、まさかのとんでもない飛躍を見せる。
そんな馬鹿な、と言いたいけれど、言えないよ・・・。
わかりたくないけど、わかってしまった。納得はしないけれど、そういうことなんだな、と。
そして、そういうことなんだな、と思ってしまう、そのことが恐ろしかった。
普通であるということは、いい人でいるということは、そんなにも儚いことなのか。


ジェイミーと暮らした部屋、屋根の上に並んで座って吸った煙草、学校をサボって通った映画館、海岸、そして、三人で聞いたレコード、カード、紙の王冠・・・
この島は世界の果てのようだ。陰鬱に閉じられた世界だ。
そのなかでそこだけ燦然と輝いている。
そのとき、ぼくは幸せだったのだ、ということばが、あまりに悲しい。