千曲川のスケッチ

千曲川のスケッチ (岩波文庫)

千曲川のスケッチ (岩波文庫)


1899年(明治32年)から七年間、島崎藤村は国語教師として小諸で暮らした。
そのころをあとから思い出しながら、少しづつ手帳に書きつづったものが、この作品のもとになったそうだ。


スケッチと言う言葉どおり、思いきった筆使いで見たままをあっさりと写し取るようなイメージを思い浮かべる。
色を乗せるなら淡彩で。
たぶん、奥へ踏み込めば踏み込むほどに、時間をかけて、もっともっとたくさんの色を塗り重ねたくなるかもしれないけれど
そうしたらもう、スケッチではなくなっちゃう。
見たまま聞いたままを初見の印象のまま、自然も人々も、淡い色合いで、素直に写し取っていく。
あっさりとしているけれど、この土地を愛し懐かしむ藤村というフィルターを通して
それこそ絵が浮かび上がってくるような自然の美しさと、黙々とこの地に生きる人々への敬意を感じている。
これは、そういう文字で描かれたスケッチでした。


深い自然に囲まれた小さな集落がぽつぽつとある、明治から大正にかけての長野県の山里。
都会の営みとは別の、ここにはここでの営みがある。
学生や同僚を伴っての山歩き、さまざまな職業の人々の炉端に招かれて聞かされた話、
ただ移り変わっていく季節、とりわけ「板の間に掛けた雑巾のあとが直に白く凍る」ような朝を迎える冬の厳しさ、
初夏の林の中で「青松葉の枝を下ろしたり、束ねたりして働いている」家族の姿がミレエの百姓画のようだと思ったり。


それらは、土地の人間であれば特に気にとめないのだろうなと思うこと。余所者だから気がつくことかもしれない。
だけど、物見高い、というのとは違う、あるものをあるがままに描写した文章は、美しいながら素朴で、皮肉なところが一つもない。
それが、沁み入るような温かさになっている。


印象に残るスケッチは、暮れ方の刈り入れ風景を描いたもの。
どんどん日が落ちていく秋の田んぼ。
畔道には、ささやかな挨拶の言葉を投げかけながら家路につく近在のお百姓たちの姿がある。
仕事が終わらない家族が、まだ田んぼで忙しく働いている。
その人影が、闇のなかでだんだん見えなくなっていく・・・
この様子を見ている藤村の感情は一切書かれていない。なぜここにいるのかも書かれていない。
ただあるがままに描写される。この光景は影絵のような静かな一枚の絵なのだ。
ここから何かを感じるのは、読者。
読みながら、労わりとは違う、柔らかな思いが浮かび上がってきて、
私はやっと、(黙っていても)藤村が人々に感じていたはずの温かな思いに触れる気がする。


七年間といったら、この土地に根を張っているというには足りなくて、旅人以上には充分に長い年月だっただろう。
少しだけ余所者でありながら、
自身もこの地の暮らしに愛着を持ち、人々にも、気さくな「先生」として自然に受け入れられていたのだろう。
そうそう、奥書で、斎藤緑雨がこのころの藤村について、こんなふうに言い及んだことが書かれていた。
「彼も今では北佐久郡の居候、山猿にしてはちと色が白過ぎるまで。」
なるほどなあ、と思う。居候で、白すぎる山猿のまま、
自分の立ち位置から見える風景や人々をきっと藤村は愛したのだろう。
大切に読みたい、ゆっくり読みたい、何度も繰り返し読みたい・・・そういう本の一冊になった。


「その1」から「その12」まで、各章(?)ごとに添えられた有島生馬の木版画が、この本のイメージにびったり。