光のない。

光のない。

光のない。


『光のない。』『エピローグ?[光のないⅡ]』『雲。家。』『レヒニッツ(皆殺しの天使)』
四編。全部戯曲です。
最初に解説を読んでしまった。それで、状況を把握したつもりだったけれど…それでもやはり理解できた、とはとても言えない。
著者の意図をおぼろげに感じたとさえ、言えない、
という状況で読了しました。
(これらを読む前に、知っているべき文学的で基礎的な常識が相当欠けているのだ)
それでも、途中で放棄することなく、最後まで読みきったからにはそれなりの感想もある・・・にはある。
それを残しておこう、と思います。


最初の二つ、『光のない。』『エピローグ?[光のないⅡ]』は、福島の原発事故を扱っています。
そういう戯曲である、ということを知って、それもドイツの作家によって書かれた、と知って、この本を読みたいと思ったのでした。
だから、この二篇は(後の二つに比べればまだ^^)状況をとらえやすかったです。
よく知っている(あの日までは知らなかったのに、否応なしに知ることになった、それも何度も繰り返し知ることになった)特殊な言葉たち、特殊な光景が
細切れになって、舞台に上ってきた。
『光のない。』はA・Bふたつの声が交互に語ります。
Aは第一バイオリン、Bは第二バイオリンなのだ、と言います。二人は「音」を探している。音楽を為すべき音が、突然消えてしまった。
音とは何か、音楽とは何か…
あの事故の最中の混乱、内側の、人ではないものが擬人化されて、しかも音楽という形で表現されているのがおもしろいと思った。
プルトニウムやウランを擬人化した萩尾望都さんの漫画「プルート夫人」「雨の夜−ウラノス伯爵−」「サロメ20××」(作品集「なのはな」収蔵)を思い出す。
…そういえば萩尾望都さんの漫画もお芝居になりそう。
『『エピローグ?[光のないⅡ]』は、一人語りのモノローグ。
事故後の混乱を高いところから見ているように感じた。


二つの作品どちらも、かなり象徴的な、寓話的でさえあるような作品でした。
その寓意が、わたしにはちゃんとつかめていません。
一体今語っているのが何者で、どこにいて、どんな立場で、何を訴えたいのか・・・
感じるのは、暗さ、寒さ。切迫感。
そして、不安。混乱。
話者は、言葉を紡ぎつつ、言いかけた言葉を即座に打ち消し、さらに打ち消し、言い淀みつつ、正しい言葉をさがしているようだった。
でも、あまりに曖昧で、喩えが、あまりに難しすぎてついていけない。
でも伝わってくるものはある。
激しく浮かび上がってくるイメージがある。
それは、自分自身の足場の不安定さ。そして孤独…
混乱のなかで大きな声を出せば出すほど、繋がろうとすればするほど、個人と個人の間は遠く離れていくような印象、そして小さくなっていくような印象。


…だれもが当事者であったかもしれなかった。
これを書いたイェリネクがドイツ人だから?
四つめの戯曲『レヒニッツ(皆殺しの天使)』は、解説によれば、第二次世界大戦末期のある事件を題材にしているそうだ。
オーストリアのレヒニッツの城で、ナチの将校やナチの協力者たちがあるパーティを開いたという。
「酒を飲み、ダンスを踊る一方で、客たちには銃が渡され、このパーティの余興として約一八〇人のユダヤ人が殺された」(訳者あとがきによる)
こういう歴史を背負ったドイツ人だからだろうか。


だれもが当事者でありえた・・・
『光のない。』と『レヒニッツ』が一緒に収録されているわけも、
間にドイツ人の精神性を謳った(らしい)『雲。家。』を置いたのも、もしかしたら、そういうことなのでしょうか。
著者イェリネクは、決して遠くから、あるいは一段高いところから無責任な言葉を放っているのではなかった。


わたしは、解っていない。解っていないどころか正反対の方向を向いているのかもしれない。
だけど。
ただ、この短い戯曲の中に散らばる混乱と暗さのなかで、この一年半の自分を振り返る。
何も終わっていないのだ、
終わらないまま、自分が孤立した小さなカタマリに過ぎないことをとても意識してしまった。


『エピローグ?[光のないⅡ]』の最後の言葉が印象に残る。

>多くの、多くの報道を読んだ。
ソポクレースアンティゴネー」も。
読むべきは、古い偉大な書物の声なのかもしれない。