女の二十四時間

女の二十四時間―― ツヴァイク短篇選 (大人の本棚)

女の二十四時間―― ツヴァイク短篇選 (大人の本棚)


「…当事者の<意志と知恵>とをこえたところで突発的に起こり、一夜にしてかかわった者たちの運命を大きく変えた」出来事のことを、
ツヴァイクは「デーモン」と名付けたそうである。
この本には、中短編が三つ。
『女の二十四時間』
『或る職業が思いがけなくわかった話』
『圧迫』
どれも最後の最後で、主人公(物語の語り手?)がデーモンに遭遇する物語。デーモンと出会うことで物語は「どんでん返し」を起こす。
丁寧に進められた物語が、どんな具合に、どういう方向に向いて、いきなり引き曲げられることになるのか、
それを期待しながら読み進めることもできます。


どの物語も、語り手の言葉、丁寧な状況描写に身を置きながら、決して人ごとではない居心地の悪さや緊張感を味わった。
そうして、読後に訪れる解放感に浸りながら、彼らの話がこんなにリアルに感じるのは、形を変えて自分にも起こった何かだったか、と考える。
そして、今味わった解放感を、その時、だれが与えてくれたのだろう、と考えています。


『女の二十四時間』
文字通りデーモンに出会った、としかいいようがない。
出来事だけをとりあげたら「なぜそんなバカなことをしたんだ」としか思えないことをふいに起こしてしまうのだけれど…
その一瞬を迎えるまでの物語のどこに、語り手の隙があったのだろうか、と考えてしまう。
何がいけなかったのだろう、どこでどう引き返せばよかったのだろう、
あるいは、本当に引き返さなければいけなかったのだろうか、とか・・・
デーモンの罠は、普通に暮らす、どうってことのない生活のあちらこちらに、いろいろな形で潜んでいるのではないか。
どこかで覚えがあるかもしれない。
その土壇場で、危ないところだった、と我に帰る瞬間も…あるかもしれない。


『或る職業が思いがけなくわかった話』も、読み終えてみれば、なるほどありそうな話ではないか、と思いながら、
まさかそっちの方向に振られるとは思わなかった、と苦笑い。


最後の『圧迫』は、「どんでん返し」の期待を忘れた…
あまりに物語が重苦しくて、主人公の緊張感のただならなさ、そのリアルさは、自分自身が体験しているようだった。
刻々とすぎていく時間が恐ろしくて、それならいっそ自分からすべてを投げ出して怖ろしい火の中に一気に飛び込んだほうが楽だ、とさえ思う。
自由な自分の首に縄が巻かれる時間が必ず来るなら、それを待っているくらいなら、いっそ自分の手で巻いてしまおう、と思う。
そんなことはしたくないのだ。
するな、する必要はないのだ、何が正しくて何が正しくないのか、自分の心の真の声を聞け。
でも、きっとできない。
そのようにはできないように、見えない鎖で、生まれおちたその日から今日まで、時間をかけてゆっくりとぐるぐる巻きにされていたのだ、と気づく。
主人公が、ではない。わたし自身が、だ。
…主人公のわずか三日間の物語は、あまりにリアルで、あまりに怖ろしかった。