園芸家12カ月

園芸家12カ月 (中公文庫)

園芸家12カ月 (中公文庫)


この本を読みながら、思うのであった。
恐れ入った。
これでは、恥ずかしくて、と、とてもじゃないけど、「趣味は園芸です」などとは言えないぞ。


この本の語る「園芸家」は、ずぼらな私から見たら、怪物である。
徹底的にやる。
徹底的にやったって、やりきれないのが園芸だ。園芸に凝ったら、きりがないんだろうなあ。
園芸家はひたすらに理想の庭を追い求め、深みに嵌って行く。とことんまで、のめりこんでいく。
怪物、ではあるけれど、なんだか愛らしいです。
その懸命さ、健気さ、自分の姿をユーモアをもって描写する余裕、茶目っけが、素敵。


一月には一月の、五月には五月の仕事が、園芸家にはある。九月にも十一月にも十二月にも、仕事はある。
せっせと園芸家は自分の仕事に精を出しながら、わけのわからん蘊蓄を言う。
園芸家の立場から、造園家やら野菜作りやらを揶揄する。
労して咲かせた花をめでるよりも、労して作った土の匂いをほれぼれと吸いこむ。


手を変え品を変え、文体まで変えたコラム風の蘊蓄も楽しい。
たとえば、「植物学の一章」では、氷河植物、寒帯植物、湿地植物…などの分類分けの話を最初は真面目に読んでいたのですが…
ステーション植物、精肉店植物…え? なんのこっちゃ。さらに墓地の植物、窓の植物とな。
その説明と、あげられた植物の名前など、植物図鑑な文体にクスクス笑う。笑いつつ、なるほど、と妙に感心してしまう。


蘊蓄も度が過ぎれば気難しくもなる。
あげくのはてには、精根傾けた庭を、自分ではちっとも眺める暇がない、というのだ。最高。


生命は不思議だ。
種が芽を吹くことを待つ日、芽ばえに遭遇する日の感動を著した文章がわたしはとても好きです。
「幼芽がもののみごとに軽業をやってのける」という表現が好きです。
ユーモアたっぷりの文章(時に皮肉っぽく)もよいけれど、
自然の思いがけない仕事に接する驚きが、みずみずしく描写された部分。
その偉大さにただ驚き、
自然の仕事に比べたら、人間はやっぱりただ人間なのだ(でも、ほかでもない人間なのだ)と言うことに気づかされる。
この本好きだなあ、いつまでも読んでいたいなあと思うのは、そういう時。


園芸家は未来に生きるのだ、という。
十年後、五十年後の庭を心に思い浮かべつつ、日々、こつこつと働く。
日々、新たな驚異に出会い、新たな喜びを感じつつ、未来を夢みる。
庭に出なくちゃ、わたしも。
とても園芸などとは…うん、まちがっても言いませんけど、ちょいと土、掘り返してきます。