草は歌っている

草は歌っている

草は歌っている


アフリカのローデシア(現在のジンバブエ)で、
物語冒頭いきなり、白人女性が黒人の下男に殺される、という事件が起こる。
殺されたのはメアリ・ターナー
彼女を主人公にして、彼女の生い立ちから始めて、
本当は何があったのか
この事件を取り巻いて、なぜ周囲の人びと(白人たち)は、何も問わない語らないことを暗黙の了解としたか、
わかってくる。


白人優位のこの国のこの社会で、白人として生きること・黒人として生きること、それがどういうことなのか。
外からそれを批判することはたやすいのだけれど…
アフリカにやってきたばかりのトニー青年が感じたように「自分が参加しようとする社会にいつまでもたてつくことはできない」のだろう。
こんなにも理不尽なのに、理不尽だ、と声を上げる前に、その社会の暗黙の了解のもとで、その声は消えてしまう。
おとなしくしていろ。ここで無事に生きたければ。


抑圧されているのは、まず黒人たちである。
白人から見たら、黒人たちは、人間でさえないのだ。
そして、白人の男から見た女。
白人>女>黒人
主人公メアリは限りなく(この時代の)女であった。
一時は自活できていた快活な女性であったはずなのに、芯がなかった。
自分で自分を支えることのできる何物も持っていなかった。
とてもとても弱かった。
生活に対する不満、夫に対する失望、人生に対する怒りが、黒人使用人に向かう。
彼女の激しさは彼女の怖れの表れであり、彼女の弱さの表れでもあったか。


徐々に壊れていく彼女の姿は鬼気迫るようだ。
心理描写はあまりに丁寧で、人ごととは思えなくなる。
自分のなかにもある弱さ、封印して決して見たくない部分を引きずり出されているようで、恐ろしい。
そして悲しい。とても悲しい。
彼女と夫の最後の日々が、まるでアフリカという土地からの復讐のようにも思える。
全ての理想と夢物語とを足もとから崩し去る。


『草は歌っている』というタイトルは確かに牧歌的に見える。楽しげに見える。
けれども、このフレーズは、T・S・エリオットの『荒地』の一節(冒頭で引用されている)から採られた
真夜中、荒涼とした墓場で風が鳴らす音、ぞっとするような虚しい歌なのだ。
牧歌的なんかではない。
でも、その自然は、圧倒的な力強さと、容易に人を寄せ付けない美しさとで、迫ってくる。
愉快な風景ではないのに、まるで思い出の中の一場面のような忘れられない光景になる。