異邦人

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)


『デニーロ・ゲーム』では、パリのホテルで「彼」がこの本を読んでいたのです。
そういえば、うちのどこかに…ほら、あった!
「それは太陽のせいだ」というセリフを聞きかじり、読んでみようと思って入手したものの、そのまま放置。
すっかり忘れていたのでした――


主人公ムルソーの言動に対する違和感に気がつくのは、読み始めてからいくらもたたないうち。
お約束の言動をお約束の場所でなぜしないのだろう。調子狂う。不安になる。
この違和感、この不安。それは、
あとのほうで検事が言う「不感無覚を前にして感ずる恐ろしさ」ということに通じているはずだ。けど…


巻末の解説のなかで、この作品に対するサルトルの言葉が引用されていました。
「…この不条理な人間はユマニストだ。彼はこの世の善しか知らぬ」
善かあ。
それは、人に対して、というより、真実に対して、というほどのことだろうか。
確かに、彼は正直である。嘘をつくことができない。
真実を曲げて見ることもできないし、見えたものを曲げて言うこともできない。
人に合わせることもできないが、自分の気持ちに流されることもできないのだ。
そういうことが見えてくるから、彼には、はらはらしながらも、信頼できる、と思うのだ。


自分の感情を、言葉や行動で、相手に確実に伝えようとするとき、
暗黙の了解のもとにできてしまったお約束のようなものがないだろうか。
愛すること。苦しむこと。怒る、かなしむ、憎む……こういうことにもTPOがある。お約束がある。
たとえば人の死に接したときに見せる涙とか鎮痛な表情とか。
それが、「真実」と違うこともないとはいえないけれど、
あえて言えば、相手への心配りであり、敬意でもあったはずだ。
そうやって守ってきた調和がある。保ってきた平和がある。
それが常識であり、普通であった。
だけど、逆に、お約束にこだわりすぎると、お約束通りの行動の外にある「感情」や「思い」が、
無視されたり、忘れられてしまうこともあるかもしれない。
常識・普通が、唯一の正義のようになってしまいかねない。それは怖い。


あの検事の「不感無覚を前にして感ずる恐ろしさ」という言葉に出会ったとき、感じたのはそれ。
「不感無覚」は本当はどっちなのだろう。
本当は感じていないのに、感じている体裁を整えることに躊躇がない「常識」のほうが怖いのではないか。
それをだれも気がつかないのが怖いのではないか。
読み終えて思うこと。異邦人はいったいどっちだったんだろう…