それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う


幸せになることは、目的ではなくて結果に過ぎない。
生きるということは、義務であり、たったひとつの重大な責務である、という。
すとーんとこう言われると、なんだそうか、義務か、と妙にさっぱりするものだ。


「それでも人生にイエスと言う」
「それでも」の「それ」は、個人個人で違うだろうけれど、
とりわけて、著者は『夜と霧』(感想)のヴィクトール・E・フランクルである。
強制収容所という「それ」がありながら、「それでも」と言っているのだ。
そのイエスの重さ、明るさ。
ナチス強制収容所から解放された、その記憶も生々しい翌年に、
ウィーンの市民大学で行った三つの連続講演をまとめたものだそうです。


『夜と霧』のなかで、
強制収容所でささやかな盗みを働いた一人をかばった罰としての一日の絶食を耐えた夜、
仲間たちに請われて、精神科医として、人生の意味を朗々と語って見せたくだりを思い出します。


気になった箇所に付箋を貼りながら読んだ。
何度も読み直したいフレーズ、
あとから読んだら、きっと意味まで違って見えてくるだろうフレーズ、
今はまだぴんとこないことを保留のままとっておこうと思ったフレーズ…
読み終えたとき、この本は沢山の付箋が、旗のように、ひだ飾りのように、たなびいていた。


…現在の自分を重ねて、
二章、三章は、読んでいて充分に納得できない部分もあった。
納得できない、というより、納得することが辛い、と思う部分があった。
フランクル博士がここにいたら……いや、そういうことじゃない。
自分の言葉で理解し、納得できなければだめなんだね。


この本のなかでフランクル博士が引用したタゴールの詩を、心覚えとして、わたしもここにメモしておきたい。


私は眠り夢見る。
生きることがよろこびだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働く――すると、ごらん、
義務はよろこびだった。
まだまだ、わたしには人生の意味を語れない。
まして「イエス」を自分の言葉として口にするには早すぎる。
それでも、いつか「イエス」と言えるようになりたい。