終わり続ける世界のなかで

終わり続ける世界のなかで

終わり続ける世界のなかで


小学六年生、伊吹の瑞々しい心(同時に未熟な心)に、当時話題になったノストラダムスの予言は、まっすぐ突き刺さる。
ここをスタートにして、伊吹30歳を過ぎたころまでの約二十年間の物語。


この物語は、予言の1999年を十年以上過ぎてから書かれた。ということは予言は成就していない。
この立ち位置にいるから、伊吹の未来に起こったことも起こらなかったことも知っているから、
卑怯にも、わたしはかなり上から目線で伊吹を見ているのかもしれない。
伊吹に共感しながらも、苛立ちも感じる。
凄くまじめなのだ。真面目で頭でっかちなのだ。
自分は動かないで、周囲の人たちに対する評論家みたいになっているのが嫌なの。
でも、自分の弱みを彼女は知っている。

>…優柔不断の臆病者で、これまで何一つ、自分の意志でやりとげたことなんかないくせに。
そういわれるとね、そんなことないよ、と言いたくなってしまう。
手探りで、一生懸命生きてきたじゃない。一生懸命さがしてきたじゃない。
大抵の人が、中途半端に投げ出してきた疑問に、しつこくしつこくこだわって生きてきた。それってすごいことじゃない。
何のために生きるのか、どう生きるのか、と。


わたしはちゃらんぽらんだ。
それでも、伊吹の物語に、ついつい耳を貸してしまうのは、気にならないわけではないからだ。
適当にお茶を濁して、それが大人だって、もっともげな顔をしているけれど、
何もわかっちゃいないからだ。
でもそんなことばかり言っていたら楽しくないから、そういうことを言うのは青臭くて恥ずかしいから、
無理やり心の隅におしやって忘れようとしていたのだ。


ノストラダムス」みたいな予言は、過去、何度も何度も別の形でささやかれたりした。
それを恐れている間に、思わぬ方面からとんでもなく怖ろしいことも次々に起こった。
「終わり続ける世界」なのだ、この世界は。何度も終わり、終わり、終わり、これからも終わり続けるのだろう。
それでも、人は滅びないらしい。
いや、滅びるのかもしれない。
滅びるとしても、今現在生きているわたしは、生き続けられるかぎり生きていく。
どのように生きるのか。
この物語に出てきた様々な人の生き方、考え方のどれもが、少しだけ納得出来て、少しだけ納得できなくて、多くは不可解だった。
答えはほんとにあるのか。
考え出したら、きっとどこまでもどこまでもすっきりしない堂々巡りのなかに落ちていきそうで怖い。
ひとりではない。ひとりぼっちで生きているのではない。
そして、終わる、ということは、そこから始まる、ということ。
世界は終わり続けるけれど、始まり続けてもいるのだ。
湧き上がってきた思いがそれだった。