ヒヤシンス・ブルーの少女

ヒヤシンス・ブルーの少女

ヒヤシンス・ブルーの少女


>赤茶色のスカートに少しかぶさる短いブルーのスモックを着た少女が開いた窓のそばのテーブルで横向きにすわっているすばらしい絵だった。
この絵(架空の絵です。表紙は無関係)をめぐる連作短編八つ。
すべて独立した物語ですが、この絵が今日まで生きながらえてきた三百年以上の年月を、現在のアメリカの所在から始めて、逆のぼっていく。
この絵の、前の持ち主はどんな人だったのだろう、このようにして、ここにあるのは、なぜなんだろう。知りたい。
前の持ち主もきっとこの絵を大切に思っていたはず。それなのに結局は手放さなければならなかったってことだろう。その理由が知りたい。
そうして、次の物語を読まずにいられなくなる。
そう思うのは、この絵にこめられた持ち主たちのひとかたならぬ思いの深さに、心動かされるから。


わたしには、この絵が現実に存在するような気がする。
ちゃんと見える。どこかで実物を見たような気さえする。
ことに少女の表情ったら・・・そして、それを彩る透明な光と影の色合い、構図も、随所の絵の具の盛り上がりまで目の前に浮かび上がる。
繰り返し様々な方向から描写されるその絵の細部が、丁寧で目に浮かべやすい、というのはもちろんだけれど、
この絵の歴代の持ち主または持ち主のそばにいた人たち――
どちらにしても、この絵に深い影響を受けた人たちの秘めやかな思いが、悲しみが、忘れかけていた夢や憧れが、
この絵をいっそう鮮明に見せる。
この絵は、もしかしたら、絵具と絵筆とで描かれたのではなくて、
この絵とともに生きた人びとの思いが結晶して絵になったのではないだろうか。と思うくらい。


少女は窓から外を見ています。
その抑えた表情から、見せまいとしながらも、かすかに漏れてくるのは、焦がれるような激しい憧れ。
いろいろな立場のいろいろな人びとが自分の人生を重ねてしまうのは、少女のその表情なのです。
ほんとうにいろいろな人びと。いろいろな人生。
それぞれがそれぞれの立場で、そう、思い通りになることの少ない人生のなかで、
抑えつけてきた自身の憧れを、この少女に重ねるのかもしれない。
この少女が見る窓の外に、自分のもう一つの人生がある、と感じるのかもしれない。
少女の見ているものや、感じていることを共感を持って自分も見ている、感じている。
それだけで、自分の人生は惨めではなくなる・・・そんな感じだろうか。


この絵を描いたのはだれだろう。
一番最初の物語で、この絵の所有者は、フェルメールの作だと断ずる。また一方に立つ者は、贋作である、とにべもない。
ほんとうなのだろうか。それとも・・・
絵の詳細は謎に包まれたまま、絵は時代をさかのぼって行く。この絵が描かれる瞬間まで。
読んでいるうちに、「だれが描いた?」と詮索したくなる自分がだんだん小さくなっていくのを感じていました。
その画家の名が現れるまでには、どうでもよくなってしまった。
ここには、ただこの絵がある。そして、持ち主たちの掛け値なしの人生が。(画家の人生をも含めて)
それらの前で画家の名まえを詮議することに何の意味があるのか、と思えてくる。(と言いながらやっぱり知りたいけどね)
ほとんどの人はこの絵の存在を知らない。
それでも、わたしは、この小さな八つの物語の主人公たちとともに、この絵をずっと味わってきた。かけがえがないと感じた。
世界的な名画であるかどうか、というよりもこの絵に関わってきたすべての人たちの人生を愛おしく感じた。
多くの人びとの人生に光を灯した(同時に、それを失う絶望も味あわせた)一枚の絵。 
それだけで充分だと思った。


一番最後の物語で、モデルの少女が現れる。
画家は、この少女を描いた。
でも、画家は、この少女の思いを理解していただろうか。
ただ忠実にモデルの姿をキャンバスに写し取ったとき、彼女の思いまでもそのまま写し取っていた。
それを求めるものだけが気がつくような姿で。
だとしたら、この絵を描いたのは画家だろうか、モデルだろうか。


思うような人生を誰もが送れるわけがない。
でも、それは、端から見たとおりかどうか、本人にしかわからない。
ただ、すばらしい絵を見た。今も見ている。そんな思いで本を閉じる。