心のナイフ(上下) −混沌の叫び1−

心のナイフ 上 (混沌の叫び1) (混沌の叫び 1)

心のナイフ 上 (混沌の叫び1) (混沌の叫び 1)

心のナイフ 下 (混沌の叫び1) (混沌の叫び 1)

心のナイフ 下 (混沌の叫び1) (混沌の叫び 1)


巻末、桜庭一樹さんの解説の
「本書の下巻を読んでいるとき、あまりないことなのだが……本を床に置いて、一時間休んだ」
という言葉を読んだとき、思わず「そうそう、そうなんです」と声をあげたくなった。
たぶん、あの部分、ですよね? (いまだに、思いだす。あまりに・・・あまりに・・・)
それから、あそこも、あそこも・・・(そこまでさせなくても、とショックで・・・)そうじゃ、ありませんでしたか?
涙なんかお呼びじゃなかった。とんでもない。
ただ、目の前が真っ白になってしまって、そのまま文字を追うことができなかった。
一言で言うなら、容赦ない。
へっぴり腰で後ずさるわたしの襟首をつかんで、目を覚ましてよく見ろ、そう言われたような気がした。
残酷な、生々しい描写がある、というわけではない。
タイトル「心のナイフ」そのままに、常に目に見えないナイフの切っ先を意識しながらの読書だった。


YA作品、子どもの本でしょう。
ここまで子どもに迫っていいものなのか。
こんなぎりぎりのところに追い詰めていいものなのだろうか。
・・・いや、たぶん、現実の子どもたちも多かれ少なかれ、トッドと同じような経験をしているのかもしれない。
少年たちは、きっと見えないナイフを心の奥に忍ばせて、ナイフの語る言葉を聞いている。戦っている。
たくさんの「ノイズ」のなかで。また聞こえない静寂の不安さにも耐えながら。
大人になるために乗り越えなければならない試練はそれぞれ、みんな違うはず。
主人公トッドは、このぎりぎりのところで自分という存在の意味を知る。
その意味を胸に刻みこむことが「大人になる」ということだった。
自分で選んだ。選ぶしかないところまで追い詰められて。
決して甘くない。YAとか、子どもの本とか言うのも恥ずかしくなるくらいに、
作者も主人公もそして読者も、同じナイフの切っ先をみつめている。真剣に。


だけど、この世界。
この物語に希望はあるのか?
ある。とベンは言う。
「いつだって希望はある」「決して希望を捨てるな」と。
決してお題目を唱えているわけではない。
ベン(とキリアン)は、あの状況下で乳飲み子のトッドを引き取ったのだ。
彼を育て、生かそうと決心して、やってきたのだ。
そのために、穢れの中に身を沈めた。退路を断った。
おそらく何もかもが終わったとき、自分の命がないことを覚悟した。
14年間。本心を心の奥深くうずめて、穏やかに過ごしてきた。
そのベンが「希望」というのなら、確かに希望はあるのだ。
たぶん、ベン(とキリアン)の生き方、人生そのものが、「希望」というものだったのだ。


もう一度思う。これはYA小説なのだ、と。
どこからどこまで希望がないように見えても、
希望はある、と心から信じ、子どもたちにそう言いきることのできる大人にいてほしい。
おためごかしじゃなくて、ほんのわずかでいいのだ、自分自身の存在が希望なのだ、と言えるような生き方を、
大人であるわたしはできているだろうか。


これは三部作の一作目。
この先に何が待ち受けているか考えただけでめまいがしそう。
でも、ベンが「希望」って言ったんだよ。この物語が希望へ続く物語であることを信じる。
頭の中は真っ白。ここで、本を置いて休むのは、ちょうどいいところなのかもしれない。
でも、あんまり長くは嫌だ。無理だ。
早く続きを読ませてください。こんなところで、いつまでも読者を置き去りにしないでね。