真夜中の動物園

真夜中の動物園

真夜中の動物園


ソーニャ・ハートネットの美しい文章が、残酷で切ない物語を描き出す。
時代も国も書かれていない。すぐに大体の時代も事情も呑みこめるのだけれど。


兵隊たちにいきなりキャンプを蹂躙されて、ロマの両親、一族みんな、連れ去られた。
12歳と9歳の兄弟は、生まれたばかりの妹を連れて逃げた。
今夜、二人(三人)が辿り着いたのは、見捨てられた動物園だった。
ひとっ子ひとりいない村のひとっ子ひとりいない動物園の檻の中に動物たちだけが取り残されていた。


動物と子どもたちの物語を聞きながら(読みながら)、両者を隔てる鉄格子の意味がわからなくなる。
閉じ込められているのは動物で、自由な場所にいるのは子どもたちのはず。
だけど、実は、子どもたちも、見えない鉄格子に閉じ込められている。
「自由であるということは誇りです」という言葉が出てきたけれど、
ここには、人も動物も、自由であるものなど、どこにもいない。
弱い者を踏みにじる征服者たちだって、その頂点に立つ総統でさえ、自由とはいえないんじゃないか、と思った。
人の自由を奪うものが自由であるはずがないし、そういうことが起こる世界には本当に自由なんて、ないかもしれない。


ちょっとポール・フライシュマンの『マインズ・アイ』を思いだすけれど、
こちらの本は、『マインズ・アイ』とはちょっと事情が違います。
ここで、ほっとしていいのか、これを希望と呼んで安心していいのか。
確かにほっとする。でも、これは、本物をあきらめたうえの代替品なのだ。
その代替品が本物を凌駕することもある。確かに。本物以上に輝くことがある。確かに。
でも、それをここでよしとするのはちょっと辛い。
だって、その本物を奪っているのは(奪い合っているのは)人間同士なのだ。


物語は、「それではどうしたらいいのか」という問いかけのなかに、残酷にも置き去りにする。
置き去りにされることはわかっているけれど、その置き去りにされる場所に驚かされます。
思いがけないところまで連れてこられる。本当はもうちょっとで飛翔できるんじゃないか、という希望とともに。
それから、そこに至るまでの過程。
この神秘的、ともいえるような独特の透明感の中を読みながら旅している気がします。