夜のサーカス

夜のサーカス

夜のサーカス


物語の中では、サーカスは、いつも何かの始まりだった。
でもこの物語では、サーカスそのものを維持することが目的になっているらしい。
・・・それがなかなか呑みこめませんでした。
二つの拮抗する力の対決の物語なのですが、この対決の意味は、なかなか明らかにされません。
闘いあう者たちさえ知らないのです。
それを、わかったようなわからないような気持ちで読み、読みながら、こうかな、ああかな、と想像し、
そして、やっぱりわからなくなるのです。
だって、これは闘いというより、むしろ二つの力の共同作業なのではないか、と思うのだもの。
二つの力による微妙なバランスのもとにひとつの世界がやっと保たれている。


もしかしたら、このサーカスは、何かのひな型でしょうか。


「そのサーカスはいきなりやってくる」
と、これが長い長い物語の始まりの一文。
類まれなサーカスです。
こんなサーカスは見たことがない。
形態も、それから、パフォーマンス(?)のひとつひとつ、さらに、供されるジャンクフードにいたるまで、
ものすごく凝っているし、似たものはちょっと思いつかないし、
観客の立場に立てば、興奮しないではいられません。追いかけて何度も訪れたくなるのも無理はないと思う。
ちょっとミルハウザーの作る世界に似ているかなあ。(いや、一見似ているようで、実は真逆かもしれない)
・・・だけど、ほのかな違和感。
あまりに特殊すぎて、完成度が高過ぎて、サーカスという感じがしないのです。


たとえば・・・
あるはずのない魔法を、あるはずがないと思いながらも「まるで魔法みたいだ、そうとしか説明できない」と思う時のときめき。
そのときめきを味あわせてくれるのが、「サーカス」という言葉ではないだろうか、と思うのです。
それは、限界だと思ったその先に細くて明るい小路をみつけたようなときめき。
だけど、初めから魔法が存在することを許してしまうと、「限界」なんてなくなってしまう。
なんでもありになってしまう。
何でもありだと思うと、たちまち色あせてしまうものもあるのだ。
まがい物だからこそ持つ輝きも、胡乱さも、後ろ暗ささえも、
魔法、と聞いた瞬間、しりすぼみになってしまうような気がするのです。
魔法を使えるのは限られた特殊な人間だから。
そうではない人間は初めからこの世界のただの傍観者でしかいられなくなってしまう。


「夜のサーカス」って何なのだろう。
サーカスの中の、魔法を使えない普通の人々にとって、ここで生きることは幸せなことなのだろうか。
そもそもサーカスの中には、人(パフォーマー?)はたくさんいるはずなのに、ほとんどが出てこない。
(主要な一部の人々を除いて)
あまりに完成され(よどみなく動いているとはいえ、中の人々はこの動きに手を貸すことはない)、
あまりに守られていて(中にいるかぎり、安全安心)
でも、この裏で何が起こっているか、わからない。自分たちが何に巻き込まれているのかわからない。
自分たちの可能性を試すチャンスも、自由に根や枝を張ることもできず、
でもなんでもできるような錯覚に囚われているのではないか。
自由意思で動いていると思いこんでいるだけなんじゃないか。
そして、時々わけもわからずに感じる不安・・・
不安の正体に気づいてしまうことは幸か不幸か・・・
そして、やっぱり、このサーカスは何かのひな型なんじゃないだろうか、という思いに逆戻りするのです。