サリーの愛する人

サリーの愛する人

サリーの愛する人


『サリーの帰る家』『サリーのえらぶ道』、そしていよいよこの本が三部作最終巻。
一巻『サリーの帰る家』ではサリーは13歳。この本を読み終えた今、彼女は19歳になっていた。
13歳の時、彼女は、無理矢理、幸福な子ども時代を捨てなければならなかったのだ。
このシリーズは、
「雇われ人の市? それって、奴隷と同じじゃない! 『アンクルトムの小屋』そのものだわ! そんなもの、行かない。母さん、いやよ!」
という言葉から始まったんだった。
大好きな学校、読書の喜び、怠け癖を置きざりに、
そして、彼女が捨てたもの全部を当たり前にこれからも所有しつづけられる同級生たちを置いて
旅立たなければならなかったサリーとケイティ姉妹に、胸が痛かった。


あの女の子はもういないんだな。
自分の人生を自分で選んで歩いていく若い女性がここにいる。
まだまだ危なっかしくて、
それでいいの? ほんとにいいの、サリー? 
と何度、本のなかの彼女に問いかけただろう。
きっとこれからだってそうなんだ。
訳者があとがきで書かれている、
「人生は、サリーにさらに何度も決断をせまるでしょうが、サリーは怖気づくことなく、思慮深く誠実に生きていくにちがいありません」
という言葉に強く頷きます。
そう、怖気づくことなく。
だから、これでいいんだ。安心して、ここで見送るんだ、次のステージにすすむ彼女を。


ほんとうにいろいろな人のいろいろな人生が、サリーの人生と交差する。
それぞれが、国と時代とを映す鏡であり、それぞれに、最良の道を探して逡巡する姿が心に残る。
彼らのその後はどうなっていくのだろう。わたしは、彼らの人生の束の間を垣間見ただけなんだ。
そうして、案外、人生の選択肢って広いように見えて、そうでもないのかもしれない、と思ったりする。
サリーについては、正直、もうちょっと枠をはみ出してみたらいいのに、と思ったこともあった。
だけど、思いかえす。彼女の立場、時代、などを考えれば、できなかったのだ。
だけど、これから先、もしかしたら・・・
思いがけない方角の扉が開くこともあるかもしれない。それはサリーだけじゃなくて、誰にだって。
思いがけない遠まわりをしたり、でもその遠まわりも後から振り返ればやっぱり必要な旅だったり。
そして、百年も昔の少女の青春記を読んでいるのに、これは決して遠い話ではない、と思う。
いや、大切なところはほとんど変わっていないのかも。
(ああ、ほんとは見てみたい、このあとのサリーの人生を。)


三冊の本のなかで、サリーが一番生き生きと輝くのは、彼女の故郷ドニゴールにいるとき。
その風景の美しさを語る作者の筆も冴え冴えとして、読んでいてほおーっとため息をついてしまう。
遠く離れて暮らしたとしても、彼女の根っこはこの土地のこの土とともにある。
土と言葉と風と光と雨と。
この土に生かされてきたことを忘れることはできないよね。どこでどんな暮らしをしても。きっときっと。