あの川のほとりで(上下)

あの川のほとりで〈上〉

あの川のほとりで〈上〉

あの川のほとりで〈下〉

あの川のほとりで〈下〉



あまりにも月並みな言葉だけれど、人生は長い旅なんだ、と感じた。
ぎっしりと詰まった濃い旅だった。
人生も旅なら、国の歴史も旅で、
1954年から始まって2005年まで、
ベトナム戦争や多発テロなど、アメリカ現代史に添いながら、バチャガルポ父子の旅が続く。


思えば、禍々しいサインはあちこちに書きこまれていて、最初から、確かな予感があったのだ、と思う。
――いつか捕まるはず、という。
目をそらさずに見つめ続けるしかないのは確実に来る「死」なのだ。
・・・それだったら、これは、特別な一家の物語ではなく、だれもが当てはまる普通の人々の物語なのかもしれない。


暴力と憎しみの連鎖が続く。
動く歴史のなかで。町角の名のない人々のあいだで。
それなのに、彼らの旅は不思議なくらいゆったりとしていて、不思議なくらいに呑気に見える。
危機感を訴える声も、思いがけないところに大穴があいていたり。
だから、読んでいてハラハラしたり、同時にゆとりも感じ、その時々の空気感を大切に味わっています。


彼らは旅の途上で、それぞれの人生を生き、それぞれ恋をし、社会的に成功していく。
何よりも父子と、そしてその周りの人々の間にある揺るがない愛情、消えない絆が、章を追うごとに、大きく豊かになっていく。
その豊かさは、常に失われることへの怖れと裏表だからこそ、輝いているような気もする。
暴力的でありながら、折り目正しさもまた感じる。
ぎょっとするほど大胆だと思うが、息を詰めるほどの繊細さも併せ持つ。
また、豊かであればあるほどに、一人と一人の抱えている孤独の深さ暗さを感じずにはいられない。ときどき滅入ってしまう。
そして旅の途上に出会うのは、どの人もどの人も稀有な人。逞しくも優しく、どこかが大きく欠けた寂しい人たち。忘れられない。
逃亡生活の物語であることを忘れて、一つの(ちょっと偏った)家族の歴史絵巻を読んでいるような気がしてきます。


はじまりはエンジェル(天使)の死だったのだけれど、最後に再びエンジェル(天使)の死が現れる。
戸惑い、ショックを受けた最初の死を、最後にしみじみと丁寧に受け入れるまでに、わたしも物語の中を主人公たちと一緒に旅してきた。
物語のさなかに、生きた天使(エンジェル)が天から降りてきて、どこかでずっと力強く生きているのを感じながら。
これは明るい兆しではないだろうか。「事故の起こりがちな世の中」には。


まるでワープするように過去の一点から次の時代の一点にぽんと飛ぶ。そこから少し引き返して、ゆっくりと戻ってきて・・・の文章。
覚えづらい固有名詞たち。一人をさすとは思えないたくさんの呼び名が、それぞれの代名詞代わり。
読みにくい、と思ったのは最初の方だけで、慣れてくれば、快感になってきます。
そして、始まりの、深く暗い森と川の匂いが、そこを離れても、いつまでもずっと、続いていました。