超訳 古事記

超訳 古事記

超訳 古事記


古事記上巻、神話部分の口語訳です。
読み終えて、「あとがき」を読んでびっくりしました。
この本が、古事記の逐語訳ではないのはわかったけれど、では、どのように訳したかと言えば、

>横になって目をつぶり、参考文献も何ももたず、ただひたすら、記憶とイメージを頼りに、心の中に浮かんでくる言葉の浮き出るままに語り、それをミシマ社の三島邦弘さんに録音してもらいました。
というのです。そういう意味での「超訳」なのでした。


逐語訳の古事記をずっと以前、読んだことがあります。
その時は、これらの物語をふくらませたらさぞや面白い物語になるだろうなあ、というような骨子をたくさん読んだなあ、という印象でした。
だから、古事記を読んでおもしろい、とは思わなかったし、神話って、こういうものだろうなあ、と思ったものでした。


でも、この本は、おもしろかった。
詩(歌?)の形になっていて、たぶん、かなり端折ってあるはずなのです。
それなのに、これは骨子ではなくて、物語でした。
易しい言葉になっていることや、リズミカルで美しい詩になっていることも理由になるのでしょうけれど・・・
もしかしたら、この作品が古事記、というより、古事記を自身の血肉にしている作者が、
心のままに語った、作者自身の古事記だからだと思うのです。
作者というフィルターを通して、古事記を読んだからだ、と思うのです。
出来ごとと一緒に作者の古事記に籠める気持ちも読んだのだ、と思うのです。


たとえば、暴虐の限りを尽くす須佐之男命に、
どこにも受け入れられないひとりぼっちの寂しさを感じたことは、今までありませんでした。
初めて、そのように感じたのです。


稲羽の白兎とともに思いだす大穴牟遅神の一生は、国譲りに至り、理不尽な一生、とも思った。
けれども、自分の一生をありのままに受け入れ、ひたむきに生き切ったこの神に、悔やむ言葉は似合わない。


邇邇藝命の嫁取りの話では、はからずも永遠の命より永遠の美を選ぶことになる。
命や美という言葉は、そのものずばりではない奥深さがあるようにも思える。


読みながら、おおらかな明るい気が、体の中から湧き上がってくるのを感じています。
命の始まり、国の始まりの物語は、あふれるような、はじけるような命の賛歌でもあります。
人が、神に託されたものは、このようにおおらかに命を全うせよ、という指令のようにも思えます。
生きよ、生きよ、と神話は謳っているような気がします。