耄碌寸前

耄碌寸前 (大人の本棚)

耄碌寸前 (大人の本棚)


解剖室がらみのエッセイだけはちょっと苦手だった。
あまりに自分の日常と離れているため、森於莵さんの世界(?)に追いつけなかった、というのが正直な気持ちです。
だけど、いいなあ、と思ったのは表題作『耄碌寸前』と『観潮楼始末記』


『耄碌寸前』
父の没年よりも長生きをしている自分を卑小、不肖といいつつ、「父はあれでよかったのだ」「天才や夭逝すべき]との言葉にしみじみと納得しています。
偉大なままに亡くなった父へ、時を経て届けられた息子からの餞の言葉でもあると思います。
ところで、そうなるといやな予感? 凡人だもの、私(笑) 「耄碌」して長生きしそうなのよ。
だけど、森於莵さんは、少し茶目っけに、老いていく自分の今の姿を描く、さらには老いていく自分の未来も思い描く。

>痴呆に近い私の頭にはすでに時空の境さえとりはらわれつつある。うっすらと光がさしこむあさまだきの床の上で時に利休がいろり端でさばく袱紗の音をきき、またナポレオンがまたがる白馬のひずめの音をきく。はたまた私は父に連れられて帝室博物館の庭を歩きながら父と親しく話し合う青年の私ですらある。
森於莵さんの耄碌ぶりは、なんと美しく上質な匂いがすることだろう。まるで霧の中から立ち現れる絵のよう。
もし、わたしが「耄碌」したら・・・於莵さんとは質の上でかなりの隔たりがあるだろうことは想像に難くない。
せめて、自分なりに美しくありたいと思う。背伸びはしませんから。
そう思うと、「耄碌」もなかなかに味のあるよいものではないの、とおもえてくる。嬉しくなってくる。
老いを戦々恐々と待つのではなく、楽しい気持ちで、それもこれも味わいつくそうと決めました。


『観潮楼始末記』
思い入れのある屋敷であっても、最後の日を迎える。形あるものだもの、仕方がない。
振り返れば、人の出入りも華やかだった日々の屋敷の思い出が、美しい。
彩り豊かによみがえるありし日の森鴎外とその家族。幼い於莵の無心の日々が、儚い夢のように明るく見える。
うつりゆく無常を、でも、甘ったるくは描かない。乾いた文章で淡々と描かれているのがよかった。