絵のある自伝

絵のある自伝

絵のある自伝


安野光雅さんが振り返るる80年は、出会った人々の歴史のようでもある。
出会い、去って行った遠い人々の思い出を振り返り、おぉーい、元気か、と呼びかけているようだ。
無名の人も、名のある人も、等しく、安野さんの文章による呼びかけにこたえるように顔を出し、
やがて、懐かしい風景の中に溶け込んでいくように、美しい色彩の挿し絵の中におさまって行く。
安野さんの語りは、前にすすみ、後に戻り、ぐるっとねじれたり、
妙に意固地なところを見せたかと思うと、大胆ないたずらをしかけたり、
楽しみながら読んでいると、突然、言葉の意味深さを思って、はっとしたりした。
この感じ・・・これって、安野さんの絵本を見ているような感じではないか。


戦後の焼け野原で
「絶望に似たふしぎな混沌から、何かが芽生えてくる期待だけがあった」と書いているところ、心に残る。
今現在何を持っているか、何に満たされているか、ではなくて、
今はなくても、これから芽ばえるものを心に描ける・信じられる、ってことなんだなあ、と思った。


お母さんと安野さんが口論していたときの、
四歳の長男の言葉「おばあちゃんもすきだよー、お父ちゃんもすきだよー」に、きゅんとなる。


「わたしたちは西洋と東洋のちがいばかり目が行くが、よく考えてみると、違うところよりも同じことのほうが多い」
という言葉も印象的だった。
だれもが当たり前のように思うところから、ふっと目線を変えることができるのは、安野さんの描く不思議な絵みたいだなあ。


「絵や音楽をことばの説明を仲立ちにしてみたり聞いたりするのは、ことばに頼りすぎた者の悪い癖である」
「その癖が長じると「この絵は何なにを表している」とか「何を意味している」というように、ことばで整理して判じ物を見るような目で見るようになる」
耳が痛い。心に留めておきたい言葉だと思った。


空想と妄想の違いの話もおもしろかった。
以前、実際に送った安野さんの年賀状はその後の顛末まで含めて、申し訳ないけれど^^あまりに楽しすぎた。