チェスをする女

チェスをする女

チェスをする女


エーゲ海の美しい島ナクソス島。風光の描写の素晴らしさに、ほっと息をついて、こんなところで暮らせたらどんなにいいだろう、と思う。
主人公エレニは、この島に住む平凡な中年女性、15歳の時からホテルの客室係として働き続けてきた。
彼女が美しい光景の中を職場に向かって歩いていくところから物語は始まる。
日が昇ってくる。
でも、彼女は、この素晴らしい光景に関心がない様子。勿体なくも「あまりに慣れっこになっているから」だという。
慣れっこ。
それは、若くもない彼女の暮らし方そのもののようだ。
そして、本来見えているものを見る目を曇らせることであり、感受性や好奇心を眠らせることでもある。


ラストシーンで、わたしは、主人公エレニといっしょにもう一度、この島の風光をじっくりと味わいます。
エレニは目覚めている。解き放たれている。
この光景に体全体が浸っている喜びを、わたしはエレニを通して感じていました。爽快でした。


この物語は、眠っていたものが目覚める物語です。
平和である。決まった日課を繰り返すことに不満はない。そこそこ満ち足りている。
平凡を絵に描いたような生活のなかでまどろんでいる好奇心が、ふと目を覚ます。
たくさん眠った後の好奇心は、もう眠らない。そうして、新しい感性を揺り起こすようです。


彼女を応援したくなるのは、エレニの「平凡さ」に、自分の日常を重ねるからです。
しかも、彼女がのめり込んだのが、チェス、というのも何か象徴的な感じがするからです。
理解できないけれど、その形や並びが、美しい、と感じる。
そして、その形の向こうに見えるのは、散文的な日常から、ほんのちょっとだけ背伸びした小さな贅沢。
憧れなのだ、と思います。
難解なものではあるけれど、その難解さに気がつく前に一から順々に学ぶことができたこと、
小さな達成感を重ねながらのめり込んでいく様
チェスでなくてもいい、そんな機会があったら、心揺さぶられてみたい、のめり込んでみたい、そんなふうに思ったのです。
控えめな彼女の快進撃が清々しいです。


ところで、形は違うけれど、目が覚めたのは、彼女だけではないのです。
田舎、島であるということは、狭い世界なのだ、仲よきことは美しい・・・ばかりでもないみたい。
狂想曲のよう。
彼女をめぐる人たちそれぞれの反応の違い、対応の違いを楽しみました。
みんなみんな、なんだか、可愛い人たちだな。厄介だけれど。


共同体の頑なさは、クロス先生の考える「人は自分の信じたいことしか見ないものだ」に通じる。
「信じたいこと」と違うことを、誰かがしたときの戸惑いなのだろう。
でも、「信じたい」という言葉は、あくまでも希望にすぎないわけで、「信じる」とか「信念を持つ」とは違う。
「信じたい」の「たい」気持ちは、きっかけさえあれば、割と簡単に変わるのかもしれない。