瓦礫の中から言葉を

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)


バベルの塔の話では、
人間の傲慢さが神の怒りを買い、
これまではみんながただ一つの言語を話していたのに、
その日を境に、自分の言葉が相手に通じなくなり、相手の話していることばもわからなくなってしまった。
この本『瓦礫の中で言葉を』を読みながら、何度も思いだしました。似ているような気がして。


この一年間ずっと、毎日毎日新しく知るできごとや想像する未来は怖ろしいことばかりでした。
でも、そういうことよりも、
もっともっと恐いものがあるように感じたけれど、それの正体がわからないのが、ずっともどかしかった。
その恐いものの正体が少しだけ見えてきたような気がしました。


なぜ、このようなときに、このような故郷を持つ著者が、「ことば」なのだろうか。
このようなときだから、このような立場だから、だろうか。
全てを越えて、今、このときに「ことば」について語るのは、それほどに大切なことだったのだろう。


言葉を失ったら、いや、言葉はあるのに、その言葉が何も意味を為さなくなったら、
どうなるのだろう。
空っぽな言葉は、簡単に別の言葉に置き換えられてしまうのではないだろうか、
もしかしたら置き換えられたということにも気がつかないかもしれない。
今まで考えてもみなかった、そんなこと想像することさえなかった。
意味のない言葉でも、語らずにいられない、ってなんなのだろう。


著者辺見庸さんは、意味のない言葉を使っていない。どの言葉も吟味されて、ここにある。
こういう本を読むのは骨でした。読み流してよい言葉なんて一つもないのだから。
そして、感想はなかなか書けません。
だって、わたしの言葉がからっぽだってわかってしまったから。
ちゃんと読めている、とはいえないのだけれど、
空っぽな言葉を使う、ということは、じわりじわりと自分を殺していくことなんだな、というのは感じます。
「上から強制的に布かれているのではなく、むしろ下から醸されているようです」という言葉に、
怖ろしいけど納得してしまった。
空っぽの言葉しか語れないのは、自分が縛られているから。
しかも、自分を縛っていたのは、だれでもない「わたし」自身だった。
じゃあ、空っぽじゃない言葉はどんな言葉なんだろう。
まとまらない、尻切れトンボだけど、
この情けないところから、「わたし」の言葉をみつけていくしかないのだ、と思う。