グラニー

グラニー (アグネス・ブラウン3部作)

グラニー (アグネス・ブラウン3部作)


『マミー』『チズラーズ』、そしてこの本。アグネス・ブラウンの物語もとうとう最後の巻です。

>くそっ、なんて老けちまったんだ。髪には白いものの方が多かった。顔も皺だらけで、それなりに愛きょうとはなっていたが・・・
と、久しぶりに母に会ったダーモットに思わせるほどに、見た目は、『マミー』のころのアグネスとは違う。
寂しい・・・だろうか? 
なんの(笑) 
だから言ってるじゃない、「それなりに愛きょう」になっているって。よい年のとりかたをしたのだろう。 
あけすけなジョーク(?)をとばしながら、シードルを飲む、すぱすぱと煙草を吸う。
そして、その内側にはあふれるほどの愛情が詰まっている。アグネス・ブラウン。


子どもたちは大きくなり、アグネスは、次々に生まれる孫たちのグラニーになっていました。
いつも超満員だったブラウン家の居間から、ひとり、ひとり、と子どもたちは消えて、アグネスだけが残っている。
子どもたちはそれぞれの人生を歩み、出会い、別れ、夢見たり挫折したり、それぞれの器量なりにせいいっぱい生きている。


大きな驚きと共に劇的な場面に何度も物語のなかで出会う。歓びや感動に胸がいっぱいになる。ときには、まるでお伽噺のようだ、と思うこともある。
でも、喜びが大きければ大きいほど、手放しで喜ぶことができない。
その一方にある針の先ほどの痛みが、幸福感の隅っこで疼いているから。
今このときに苦しんでいる者の存在や、ここに居ることのできなかった者(居るべきなのに!)のこと、
そして永遠に失われてしまったものの思い出などが、蘇ってくる。
・・・それでいいんだ。
アグネス・ブラウンの物語は、そうした痛みも喪失も、ちゃんと歓びの席に座を連ならせている。
それが好きだと思う。


子どもたちそれぞれの物語のなかで、ダーモットの物語はことに印象に残る。
彼が息子に語る『ドラゴンフライ』には惹きこまれました。
子どもから死について聞かれたとき、ことに身近な者の死について聞かれたとき、大人はどう答えたらいいんだろう。
『ドラゴンフライ』は美しかった。
それは子どもに語る以上に、大人である自分が、肉親や近しい人々の死に臨したことを思い出して、そのイメージの美しさが、心に広がっていく。
心が軽やかに晴れていく。


もう一つ、『チェスナット・ホール』
ダーモットの暗い時代に関係したエピソードのはずなのに、
「チェスナット・ホール」という言葉、そしてその場所を思い浮かべるとき、感じるのは不思議な透明感、暗がりのなかの切ないようなきらめき。
『ドラゴン・フライ』と『チェスナット・ホール』の持つ輝きは、ダーモットの奥深くで眠っていた彼の根っこのようなものだったのだろう。
それを最初から(形はともかくその本質を)見抜いていたのがアグネスだったかもしれない。
どんなときも、絶対の信頼とともに。


三冊の物語はそして終わっていく。
この続きはないんだなあ。ただ、心の内で「続チズラーズ」を思い描きます。短編とかであったらいいのに。アグネスの子どもたちの物語は続く。
(アグネス、いつか、わたしも「そこ」で、お茶に呼んでね。)
たくさんのドラゴンフライが美しい空を飛び交っているイメージを心に思い描きつつ読了。