わたしの山の精霊(リューベツァール)ものがたり

わたしの山の精霊(リューベツァール)ものがたり

わたしの山の精霊(リューベツァール)ものがたり


>リーゼンゲビルゲの山の精は手きびしいお方だ。悪ふざけで、あだ名を口にしたりすると、とんでもないしっぺ返しがくるから覚悟したほうがいい。でも、困って助けを求めてくる人間には、いやなはずのあだ名でも悪く思ったりはしない。
その山の神リューベツァールとさまざまな人間たちがからまる物語、東方ドイツで親しまれてきた民話集です。
24のお話と、そのお話の間に「はじめのはじめのお話」「まんなかのお話」「さいごのお話」として、プロイスラーの創作(?)を挟んでいます。
もちろん、三つともリューベツァールが大きく関わる物語、そして、三つともプロイスラー自身(少年、青年、大人の現在)が関わる物語なのです。


ここでとりあげられたのは24のお話ですが、リューベツァールの出てくるお話は、きっとまだまだあるような気がします。
きっと、人々の言いならわしや、げん担ぎなどにも、ちょこちょこ登場したのではないか、と思う。
どんなに親しまれ、どんなに畏れられ、敬われていたリューベツァールであったか。
お話のパターンは似ています。
山の精は、人々の前に、あるときは修道士、あるときは宿屋の主人、狩人などの姿で現れて、
奢った者や悪賢い者は懲らしめ、正直者には幸福を与えます。


面白いな、と思ったのは、
キリスト教への信仰と、いわば異教の神様であるリューゲンツァールへの信仰(?)が、人々の間で、いい具合に両立している感じなのです。
ゆるやかにおおらかに、畏れと敬いの心がこの地の人々の間に広がっているような感じが心地よくて、楽しかった。


「訳者あとがき」によれば、舞台となった地方は、鉱山業、ガラス工芸、亜麻布の織物業などを特色としたそうです。
この地方の山中でしか採れない貴重な薬草を使って薬をつくる秘術の職人の村もあったそうです。
そう言われて振り返ってみれば、なるほど、今まで読んできた民話は、
美しい自然描写とともに、鉱工業や薬作りなどを背景にしたお話がいくつもあったなあ、と思い当たります。
職人や薬売りなどが主人公(?)の物語もあったし。
この地方の特色をさりげなく織り込みながら、地元への愛着が、お話の隙間にちらちらと垣間見えるようでした。


一番好きなのは、プロイスラーの創作の一番最後のお話でした。
「訳者あとがき」で、プロイスラーの履歴を知りました。その履歴を踏まえて読めば、このお話がただのお話ではないことに気付きます。
そして、この本のタイトルに「わたしの」とわざわざ記されていることの意味もわかるような気がします。
これまでの24の民話と、この前の二つの創作と、あわせて26のお話は、最後のお話のための枕だったのではないか、と思うほど。
最後のお話を語るためにこれまでのお話があったのかもしれない。
そして、この最後のお話が、これまでのお話に向かって流れをさかのぼっていくようにも感じました。
理不尽に奪われ失うものの多い苦難の人生だったことだろう・・・
慣れ親しんだ民話の眠る山を離れて。
それでも、偉大な山の神は、はるか遠くの地で彼を懐かしむ小さな人を、忘れても見捨ててもいなかったのでした。