望月のあと (覚書源氏物語『若菜』)

望月のあと (覚書源氏物語『若菜』)

望月のあと (覚書源氏物語『若菜』)


巻頭に、藤原摂関家家系図がある。
この家系図の複雑な関係をじっと眺めていると、おのずと、様々な物語が見えてくるような気がします。


前半、『玉葛十帖』
おやおや、紫式部の綴る物語と、道長を中心とした現実(?)とが、追いかけっこし始めた?
最初は気がつかなかったのだ。この追いかけっこに。
これは一体何だろう。
以前の巻で香子さん、光源氏のモデルは藤原道長ではない、と言っていましたよね。
それでは、式部(香子)の真意は何だろう。何が起こっているのか、いや、何を起こそうとしているのか、なんだかわくわくしてきたぞ。
頭のなかで勝手にBGMとして「茶色の小びん」が流れだした。
軽やかで小気味のよい物語を存分に楽しんでいると・・・


後半、『若菜』で、一気に目を覚まさせられた。物語に引き込まれていく。
糸丸の仲間たちの物語に、時に腹をたて、時に胸がいっぱいになってしまう。
平安の宮廷の物語なので、ここまでは屋内の描写が主だった。
思えば、人の動きも背景もゆるやかで、あまり大きな動きがなかったのだ。(にも関わらず、飽きるどころか夢中になる面白さなのですが。)
さて、童・糸丸が外に出て動き始めるとがらりと目の前の風景が変わる。
目の高さが変わり、視野が広がって行く。新鮮。とたんに場面が活気づいてくるような気がします。
多彩な人間たちが入り乱れ、今まで描かれることのなかった物語(でも、ずっと存在していた物語)にスポットライトがあたるのです。
それは名もないものたち、地を這うように暮らす者たちに当てられる光の温かさでした。
どん底のまっ暗闇な世界でもなお、輝くものがある。必ずある。その愛おしさ、せつなさ。
小さな輝きは簡単に踏みにじられる。そうだろうか・・・
逞しい、という言葉の意味をふと考えてみる。粗野であること、乱暴であることとは異なるはずだ。


最初から最後まで道長は陰に日向に大活躍(?)一人で天下を背負って忙しそうだ。
引き比べて、決して歴史の表舞台に名を残すことなく、この窮屈な世界を逆手にとって、しなやかにしたたかに生きていく者たちがいる。
この巻でも見事であった。
そのおかげで、怪物道長が、マヌケに見えてしまう気持ちのよさも、そろそろお約束だろうか。


そうか、道長が「この世をば・・・」と詠んだのはこんな時だったのか。
その栄華に曇りなし、と高らかな哄笑のような歌だとずっと思っていたけれど。
実際、傍目から見れば、光源氏でさえたどりつくことのできない栄光の只中にいるように見える。
だけど、この物語のなかで、ほかならぬ道長自身がすでに、やがて来るはずの「望月のあと」を感じているかのようだ。
感じつつ、必死でその栄光にしがみつこうとしているかに見える。
月が今まんまるなら、あとは少しずつ欠けていくしかないのだ、と、もうすでに知っているんだ。
そんな彼にとって、「この世をば」は、哀れな老人のなりふり構わぬ願いであったのかもしれない。
そこに源氏物語の『若菜』上下を充てて符牒(?)を合わせてみせてくれるおもしろさは、前半『玉葛』とは違って凄みと切なさがあるのです。


そして、道長の知りようのない(知る必要もないのかもしれないけれど)何もない場所で芽吹き始めた若い春の輝きがなんともまぶしい。
世は移り変わっていく。歴史は動いていく。
その波にひるむことなく、のびやかに生きていく人たちに幸多かれと祈ります。