白桃

白桃―― 野呂邦暢短篇選 (大人の本棚)

白桃―― 野呂邦暢短篇選 (大人の本棚)


地味である、決して明るい話ではない、さらにいえば、どの作品にも一定の閉そく感があり、淀んだ空気感がある。
その淀みがむしろ安定感のようにも思える。
この安定感のなかで、静かに物語の機微を味わう。瞬間の人の気持ちが一つの物語なのだと思う。
そのちょっとした瞬間を丁寧にさすっていくような文章を味わうのは心地よいです。


『白桃』
この物語から明るい推移を期待することはできない。むしろ、状況が変わったらたちまち何もかもが現実味を失ってしまうだろう。
どん詰まりの狭い空間のなかで、いろいろと体の姿勢を変えて、どうしたら少しはマシだろうかともぞもぞしているような感じ。
背景がやり切れない。
そこへもってきて、この兄弟が負った役目がさらにやりきれない。
それぞれの立場で自分の役目に忠実であろうとするいじらしさ、緊張がはじけた瞬間にあふれるものなど、心つかれるようだった。
弟の思いも兄の思いも、別々の場面で、味わったことがあると思う。
どちらの立場に立っていても、今なら、相手の心細さや裏切られ傷ついた思いを、そのまま受け入れられそうな気がするのだけれど。
暗いなかで、白く輝くのは白桃。どこか艶めかしいようでもあり、毅然としたような姿でもあり。
まるで罠にかけようとする悪女のようにも見える。
でも、白桃は白桃なのだ。何の意志も持っていない。この難しい場面のなかで表情を変えず凛としているように、わたしには感じる。
それは、闇のなかの明かりのようで、弟がこのあとに見る闇に浮かぶ街の明かりに繋がって、
暗がりのなかで弟の心に添おうとしている母性のようにも感じています。


『十一月』
何が起こるわけでもない小さな物語だけれど、確かにこれ、十一月だなあ、としみじみと思う。
「十一月は何も起こらない」というフレーズがある。そう、たぶん何も起こっていないのだ。
気配、空気の色、気持ちのもったりとした動きなど・・・何も起こっていない十一月の「何も」は、他の月の「何も」とはこんな風に違うのだ。
十一月という月に寄せる感覚が、こんなに味わい深い作品に仕上がっている。詩のようにも思えます。
これが一番好きです。


『藁と火』
N市が、具体的にどこの市であるかわかった瞬間、はっと身構えた。
後の世に生きる人間なら、そのひとつひとつが、どんなに怖ろしいことかわかっている、それらをなんてさらりと書くだろう。
もっと怖ろしい描写がどっさりある。世界がひっくり返ったような不幸のただなかにある。
だけど、それよりもずっと怖ろしいのは、雨、畳の上に積もる灰・・・こういうもの。
めずらしくもないものが、さもめずらしくもなさそうに書かかれていること。だれも何も気にしていないこと。
このあとに起こることを想像すると(想像しないではいられないのだが)いたたまれないのです。
せめて・・・せめて、今だけ、ぐっすり眠れ。そう思うしかなかった。


『花火』
この短編集の最後を飾るのがこの物語であってよかったと思います。
つぎつぎに打ち上げられる花火。
一番、黄菊。
二番、白露。
主人公とともに万感の思いをこめて見守る。
明治維新を迎え、年老いた武士・・・激しく移り変わる世の波の内で、その胸中の思いを慮る。
断髪した髪を、小さく小寄りで結んだ小さな髷を、いったい今朝、どんな思いでしつらえたかと思うと
胸がいっぱいになりつつ、こちらもきりりと気持ちを整えて、今、大空に開く光の花に、ただ見入る。
よかった・・・