本へのとびら

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)


「やり直しがきく話」「生まれてきてよかったんだ、と子どもにエールを送る」のが児童文学だそうです。
子どもだけではなく、大人もエールをおすそわけしてもらっていることがあるなあ。


宮崎駿さんは、岩波少年文庫を、現代っ子のために、50冊紹介しながら、「これは、かつて本を読んだ人たちが読む本」ともいいます。
この地味なシリーズを、今の子どもたちは自分で手にとるだろうか・・・
もしかしたら、嘗て宮崎駿さんにとって敷居の高かった『資本論』や、わたしにとっての『源氏物語』や『チボー家の人々』と同じくらい、
子どもたちにとっては、手に取りづらいシリーズじゃないか、と思ったりもします。
それでも、岩波少年文庫は変わらず。
どこにもだれにもおもねることのない気高さ、そっけないほどの清々しさが好きです。
宮崎駿さんは、子どもにとって大切な本が一冊だけあればいい、とおっしゃいます。
その一冊が岩波少年文庫のどれかだとしても不思議ではないわけだし。


いつも変わらぬ姿で振り向けばそこにいる、と、そういう存在の本があるのはいいなあ、と思います。
同時に、変わっていくものの、その時代のその刹那だけにある真実も、また、必要と思うのです。
変わらないものと、一瞬のものと、どちらも、大切に味わえる子は幸せだなあ、とわたしは思います。


宮崎駿さんは「本ばっかり読んでいる子というのは、ある種のさびしさがあるからですよ」とも言われます。
はっとします。
いつも元気でおしゃべりな子でも、そういうさびしさは、きっと持っている。
そういう寂しさを愛おしく思う。わたしがじゃない。本がそう思っているような気がする。
だれにも知られたくないかもしれないし、自分でも気がつかないかもしれないけど、
きっと本だけが知っているし、本だけには知っていてほしいのかもしれないね。


「画一的になっていくのが人間の運命でしょうか。滅びるようになっているんだと思うしかありません」という言葉も印象に残りました。
画一的ということを滅びへの道と呼んだことが。
・・・それでは、わたしは、自分の目で物を見、自分の耳で聞き、自分の頭で考え、自分の言葉を発しているのだろうか。
ふと不安になるのです。
何ができるかといえば、インスタントな出来あいから、(もちろん出来る限りだけど)離れたい。
遠まわりに見えても、自分の手や足を動かすこと、時間のかかることを厭わない生き方をしなくちゃ、と思っています。


数々の素晴らしいアニメーションをわたしたちに送ってくれた宮崎駿さんは、
今ファンタジーをつくれない、と言います。
「幸せな絵がを当面つくれない」「嘘くさくなる」「(現実から)目をそらさないようにするのがせいいっぱい」と。
そういう時代がやってきたんだ・・・
でも、受け取り手としては、こういう時代にこそ、本当に幸せな絵をみたいのです。
わたしは、幸福な物語をむさぼり漁る。探しに探します。
メッキじゃない幸福を。いつの時代にも変わらない何かを。それが何なのかもわからないのに、本のなかを探しまわっています。
もしかしたら、そういう宝物は、昔からずっと変わらずにある懐かしい児童書のなかにあるのかもしれません。
この時代に、「ファンタジーをつくれない」宮崎駿さんは、「ファンタジーをつくるのは子どもたち」という。
ファンタジーを作れるような幸せな子ども時代をどんなにしても保証してあげなければならないんだ。それが私たち大人の大切な仕事と感じました。
そのためにどうしていいかのヒントも、古い本のなかに隠されているかもしれないです。


石井桃子さん、中川李枝子さんについて熱く語る宮崎駿さんの言葉はみんな好き。
石井さんや中川さんの紡ぐ言葉の世界の何が、こんなに幸福にしてくれたのか、もう一度しっかり読みなおしたくなりました。
こんな時代だからね。なおさら。


吹き始めた風のなかで(風は怖ろしく轟々と吹く)(死をはらみ、毒を含む風)
「生活するために映画をつくるのではなく、映画をつくるために生活する」と宮崎駿さんは言います。
私の一番大切なもの、好きなものは何かなあ。一番好きなもののために生活するのだ、と思うと元気が出ます。勇気もわいてきます。