湖畔

湖畔

湖畔


読んでいる時よりも、読み終えたときよりも、
読後、時間がたつにつれて、さらに、その良さが、ゆっくりと広がって、お腹の中から満たされてくる、そういう本でした。


アイルランドの田舎。ある湖の畔にある、牧畜が主な村です。
この地に、ロンドンから移り住んだラトレッジ夫妻を中心に据えて、ある一年間、村人たちの営みをなぞっていきます。
春夏秋冬そしてまた春、素晴らしい自然描写とともに。


ラトレッジの家には、入れ替わり立ち替わり、村の誰かがやってきて、話しこんでいるように見えます。
ラトレッジ夫妻は、扉には鍵をかけない。人の悪口を言わない。
受け入れが広く、来るものを拒まない。そのくせ、他人の重たい扉をこじ開けるようなことはしない。
ラトレッジは、「よそ者」なのだと思うのです。だから、意識して、そのように努めた部分もあったのかな、と思いました。
親の親のそのまた親の代から良く知りあっている者同志の住まう狭い村では、
よそ者であることは、村に入ってきた新鮮な風であり、少しだけ客観的にお互いを見る鏡のようなものでもある。
よそ者だからこそ、この村の姿をこんなにも鮮やかに(まあまあ客観的に?)描写することができたのだと思います。
ラトレッジ夫妻の村人たちに対する、ほどよい距離感は、心地よいです。


この集落は、一見、波風も立たず退屈なくらい平穏、そう見える。
だけれど、ここにも誕生があり、死がある。
人々の集まりから生まれる諸々の悲喜劇がある。
後世に名を残すような華々しい業績も派手な舞台もないけれど、日々、なんてたくさんのドラマがあるのだろうか。
こつこつと、自分の器量にあった道を辛抱強く歩いていく人々の、地味に見える人生もまた冒険なのだ、と思う。


冒険の日々には、いつでも隣人がいて、
平和な顔で煙草を勧め、強い酒を酌み交わす夕暮があるのはいい。ときにはいさかいもあるけど。
ままならないことが多い日々ではあるけれど、このひとときの余裕にほっとするのです。
そして、その合間に、読者は、美しい自然描写に目をやり、ただ美しいなあ、とほっと溜息をつく余裕を与えられます。
丁寧に生きていきたい、豊かに暮らしたい、そう思った。


次の年もその次の年も・・・きっと、たくさんのドラマが生まれ、消えていく。やがて豊かな芳醇に変わっていくのだろう。
でも、傍目には、あくまでも、何も変わらない景色に見えるだろう。つまらない、退屈だと思われるかもしれない。
この静かな湖が抱えている豊かさは、知る人ぞ知る。それでいい、それがいい。
絵本『にぐるまひいて』をちょっと思い出します。