ブタとおっちゃん

ブタとおっちゃん

ブタとおっちゃん


しばらく前に、鳥山敏子さんの『いのちに触れる』(感想こちら)を読んだ。
ニワトリを殺して食べること、ブタを一頭まるまる屠って食べること。・・・小学四年生の授業でした。
圧倒された。打ちのめされたような気がした。
自分の足りなさや、エゴに気づかされた。当たり前のようにスーパーのパック詰めの(きれいな)肉を買ってくるわたしの、根なし草ぶりに気付かされた。
感動した・・・その体当たりの授業に。体当たり、と感じるけれど、それ以上に一人ひとりの子どもたちに注ぐ繊細なまなざしに。
それでも、もやもやしているのは、何かが足りない、と感じたから。
何か・・・もしかしたら、それはちゃんと書かれていたのかもしれない。ただわたしが読みとれなかっただけで。
そう、わたしは読みとれなかった・・・


『ブタとおっちゃん』
おっちゃんと、おっちゃんが育てるブタたちとの、さまざまな表情をとらえた写真集です。
この写真集のなかに、「足りない」と思っていた何かをわたしはみつけた・・・


おっちゃんがどんなに手をかけ、愛情をかけてブタたちの世話をしていることか、
それに答えるブタたちの表情の良いこと、良すぎて笑ってしまう。
ブタとおっちゃんと、両方の表情のあまりの無防備さにも、笑ってしまう。


このブタたちは、ペットではない。ただの友だちではない。やがて「おいしい肉」になるのだ。


『ブタとおっちゃん』の世界は、共感の世界だと思うのです。
食うものと食われるもの、どちらもいずれ死んでいくのだ・・・
命を食らう、ということは、自分もまた、命を与えることを了解するということなのだ。
「いのちを戴く」という言葉を聞きながら、使いながら、「足りない」と思っていたのはそういうことでした・・・
「死」を共有しての共感を、これら写真の余白にみるのです。


大切に育てたものを屠ったこともないわたしが本当にわかっているのか、と聞かれたら答えられないけれど、
わたしは、ブタとおっちゃんの、何の説明も付されていないモノクロのこれらの写真に出会ったとき、不思議な安心に包まれた。


この写真集のおっちゃんとブタたちの関係のおかしみ。
おかしくておかしくて、たまらなく愛おしい関係を、言葉で説明することはできない。
でも、あえていうなら、これは一つの絆であり、約束かもしれない。
人にもブタにも果たすべき役割がある。勤めがある。それを互いに認め合っている、
言葉にならなくても、出来なくても、知っている。
知っている者同士が作りだす余裕なのだ。
うまく言葉にならない、言葉にしようとすると違ってしまう。
あえて今すぐ、言葉にしないほうがいいのかもしれない。