抱擁、あるいはライスには塩を

抱擁、あるいはライスには塩を

抱擁、あるいはライスには塩を


柳島家・・・二代?三代? 不思議な家族の物語です。
彼らの暮らしぶりの妙に閉じた世界、閉じられたまま完結している幸福を、不思議な・・・と思いました。
世の中はずんずん動いているというのに、現実の世界に背を向けて、この家族はずっと、とろとろとした夢の中にいるようだ、と思った。
ほんとうに奇妙な家族の物語なのです。
この本のなかで一番自分の印象に近い人物は、15章「一九七六年 春」の語り手である鮨屋の大将であった。


へんてこだ、ちっとも理解できないよ、と思いながら、意に反して、ずんずん惹かれていくのは、
この家のたたずまい、家族の暮らしぶりなど・・・(裕福すぎることはおいておくにしても)憧れがたくさん詰まっていたからでもあります。
目を見張り、ほっと溜息をつき・・・憧れました。
一章「一九八二年 秋」で、幼い陸子が、おもちつきの日、紙皿を持ったまま玄関から、薄暗い家の中に足を踏み入れたところ、
活けられた水仙の匂いや拭き清められた廊下や階段の手すり・・・などを身体に沁み込ませるような感じ(そんなふうに感じたのです)で、
「私たちの家だ」と結んだところ、歓びや懐かしさのようなものが身体じゅうに広がります。
この家、知ってる。いや、このように家を愛でる感覚を知っている。
ああ、そうだ。ルーシー・M・ボストンの『グリーンノウ』シリーズを思い出す。あのオールドノウ夫人の住まうマナハウスを。


そして、ほんとにヘンテコ、ちっとも共感なんてしていないはずなのに、
章ごとにとっかえひっかえ現れる語り手一人ひとりに、やっぱり惹かれているのです。
そのような考え方はわたしにはできないけれど、わかるなあと思ったり、
あなたの立場だったら、この時代にこのような家で育ったということは・・・そうだろうねえ、と思ったり、
そして、いつのまにか、そのひとりひとりの目で世の中を見まわしていたりする。
彼らとともに歓び、憤り・・・憤り? いや、怒っているのはわたしだけかもしれないけど。
どきっとする秘密などに驚き、でもそれはただ読者である私と、彼らを見守るこの本の中の「家」とだけ知っていればいいことで、
それから悲しみ、悲しみを心の奥深く沈め、癒され・・・
でも時に はっと胸を突かれる。時に・・・はっと・・・。
いつのまにか、遠いはずの彼らが、近くにいる友人になっていた。


へんてこな家族だ、と思ったけれど、もしかしたら、へんてこじゃない家族なんてないのかもしれない。
それぞれの家にはそれぞれの家の「当たり前」があり、その当り前は、時に他人をぎょっとさせる。
変な家族とは、ありきたりの家族と同義語かもしれない。


静かに流れていく年月、まどろみのような日々は、やはり夢のようだ。
でも、この夢は、ここにいる登場人物たちみんなが、みんなで、全力で、必死で守ってきたのだと思う。
この夢は一体だれが見ている夢だったのだろうか。


夢を見ていたのは、この家である。
もしかしたら、この本の主人公は「家」なのかもしれない。
家・・・
家族にとって帰りたい場所であると同時に出ていきたい場所。そして、いつの日も懐かしい場所であって、やっぱりいつか帰る場所。
そうして、だれもいなくなってもなお、
家は、嘗てここにいた人々の声や足音、体温など・・・すべてをしっかりと夢の中に抱いているにちがいない。